2023-01-01から1年間の記事一覧
悲歎述懐讃 なんと悲しいことであろう。 出家のものも在家のものも、日の良し悪しを選び、天地の神々を崇(あが)めながら、占いや祈祷(きとう)を日々のつとめとしている。
人は花 花は人 一人一花一語一会
自然災害や火災の時、まっ先に持ち出したのが御本尊や聖教だったということ。今とは優先順位が違っていたようです。仏の座を守ろうとしたのでしょう。花を見るとその歴史を思いおこします。
弁円さんの心も次第に憎嫉(ぞうしつ)から尊敬の念に変わっていきました
一枚の写真のなかに人生の物語があることも・・・。
家庭報恩講(ほんこさん)は私自身の大切な学びの場(法座)でもあります
瓦礫(がれき)のように価値のないものと思われているものが、本当は尊く輝いていることに気づいてもらいたいと思います。
人に正しい答えを与える前に、自分自身の内心に生まれた問いに、真摯に向き合う必要がありそうてす。
踏みにじってもよい「いのち」はありません
二人の講師をお話しを聞いて共通していたのは言葉の大切さ
平凡な凡夫には 平凡な花が似合う
大人になり分別心でものごとを判断するようになると、この問いを忘れてしまうかもしれません。
生きとし生くるものすべて このみひかりのうちにあり
個人の能力・資質などに関わらず 「いのち」そのものが尊い
久しぶりに皆さんの顔を見て 正信偈唱和の声やお念仏の声を聞くことができ 本当にうれしいことでした
お念仏を称え合掌礼拝する姿とお念仏の声が和顔愛語
今日の一日を誠実に生きること。 自らの分を尽くすこと。
お互いに憎しみあい傷つけあっている。それが人間社会のありようならばこんなに悲しいことはありません。
御同朋(おんどうぼう)の普遍的な人間関係がいまの世のなかに一番必要なものではないだろうか・・・
教行信証の坂東本(大谷派 国宝)・高田本(重文)・西本願寺本(重文) この教行信証三本が 同時に展示されることは今までにはありませんでした
歴史ある本堂のなかで静かに手を合わせるほうが 心が落ち着きます
人間の思慮分別を超えた、網の目のように深く重なりあう背景を、経糸(たていと)で紡いできたのが、お念仏なのかもしれません。
梵鐘の銘文は 南無阿弥陀仏
お仏壇には毎日お参りします。嬉しいときも悲しいときも。
身近に生きる小さな仲間を大切にする。いのちの共感、そこからいのちの共育が始まるような気がします。
今年は生誕850年になります
年貢を納めるのに精一杯で日々の暮らしに追われている庶民にとって、お念仏を称えて平等に救われる教えは驚きだったことでしょう。
人間の理性分別(りせいふんべつ)・思慮分別(しりょふんべつ)には限界があります。 仏教ではこの分別心が苦しみの根本であるとしています。
本願寺派では太陽暦(新暦)のご命日にあわせて御正忌報恩講を勤めています。
どのいのちも大切ないのちなんだよ