み教えと生活
私の内心に鬼が棲(す)んでいたのです。
悲歎述懐讃 なんと悲しいことであろう。 出家のものも在家のものも、日の良し悪しを選び、天地の神々を崇(あが)めながら、占いや祈祷(きとう)を日々のつとめとしている。
自然災害や火災の時、まっ先に持ち出したのが御本尊や聖教だったということ。今とは優先順位が違っていたようです。仏の座を守ろうとしたのでしょう。花を見るとその歴史を思いおこします。
家庭報恩講(ほんこさん)は私自身の大切な学びの場(法座)でもあります
踏みにじってもよい「いのち」はありません
個人の能力・資質などに関わらず 「いのち」そのものが尊い
久しぶりに皆さんの顔を見て 正信偈唱和の声やお念仏の声を聞くことができ 本当にうれしいことでした
御同朋(おんどうぼう)の普遍的な人間関係がいまの世のなかに一番必要なものではないだろうか・・・
梵鐘の銘文は 南無阿弥陀仏
お仏壇には毎日お参りします。嬉しいときも悲しいときも。
身近に生きる小さな仲間を大切にする。いのちの共感、そこからいのちの共育が始まるような気がします。
どのいのちも大切ないのちなんだよ
人は、 自ら教えられたという人の言葉に、 教わっていくものである。
静かに仏法を聞けば、ほどよい雨が草木を潤すように、仏法の雨が心を潤して、しなやかさと活力を与えてくださいます。
念仏のでるところは、どこでも法座になりうるということです。