子どもの問い
2016年8月1日・2日富山県高岡市の法座に寄せていただいたのですが、早朝5時から6時までの法座でした。
黎明講座(れいめいこうざ)という名前の通りです。そんなに早くから人が集まるのかと心配しましたが、夜明け前の暗いなか、4時半頃から多数の人が集まり始めたので驚きました。日中の移動の時間を利用して井波の瑞泉寺(ずいせんじ)にお参りしました。
猛暑のなか境内にいたのは私一人だけで、広大な本堂に一人ぼんやりと座り彫刻を堪能しました。そのような時間は私にとってとても大切な時間です。
そして境内を出て掲示板をみたら、
「人げん なんのために 生きとるげん」小学一年生の女の子の問い
大人になり分別心でものごとを判断するようになると、この問いを忘れてしまうかもしれません。
本人もまわりの大人も性急な答えを求めず、この問いをあたためて、親鸞さまに聞いていくならばいずれ機縁が熟したときに、理性分別の彼方から答えが聞こえてくるのだろうと思いました。よくよく案じてもらいたいものです。とうぶん分からないままでいいでしょう。問いが深まるのはとてもうれしいものです。
人間とはもともと仏教語で、個人の人を意味するようになったのは後世のことです。本来は人間関係を意味しています。そうであれば考えなければならない本質は人と人の「間」ということになります。
高齢の人でも子どものような探究心を忘れない人は、生き生きとしいているように思います。人げんそのものに対する探究心には終わりがないのかもしれません。