ほうわ

み教えに学び自分自身をふりかえります

吉崎を訪ねて その1

蓮如上人が吉崎におられた文明年間、この地にはどのような人々が集まって、どのような風景を見てきたのでしょうか。

この時代は応仁・文明の乱のただなかであり、中世史のなかでも歴史的大飢饉といわれている、1461年の長禄・寛正の大飢饉では、越前でも数多くの人が餓死したと記録されています。

村の原型である惣村ができ、各地で講が形成されたのもこの時期です。詳しく知りたい人は真宗史の本を読んでください。このころには農業技術も随分進歩したようです。

また下剋上の時代で、戦国時代が幕を開けようとしている時代でもあります。この地に集まった人のなかには、戦乱や大飢饉を経験した人も、多くいたのではないかと考えます。多くの苦悩を持ちながら救いを求めていたのでしょう。

この地に集まったのは百姓ですが、中世で百姓というのは百の姓ということで、農民だけでなく、あらゆる職業の人達ということです。農民・大工・左官・鍛冶屋・漁をする人・商人などさまざまな職業の人や、その家族が集まったのでしょう。

当時の暮らしについて、詳しく知りたい人は「福井県立朝倉氏遺跡資料館」に行けば分かります。吉崎の歴史と朝倉氏の歴史は同時代で重なっているからです。

例えば「バンドコ」というものがあります。中に炭火を入れて使用するものですが、昭和30年代ぐらいまで使用されていて、私も使っていました。また、除雪の際に使用する「ばんば」も昭和30年代ぐらいまで使っていました。

吉崎にいた人々も当然使っていたと思われます。そのような日用品をつくる職人さんも多く集まっていたでしょう。

私の住む地区には春になると三椏(ミツマタ)の花が咲きます。その椏(ミツマタ)の樹皮は加工されて越前和紙の原料になるそうです。もしかしたら、ただ花が美しいから育てたのではなく、和紙職人さんに原料を提供することで、生計が成り立っていたのかもしれません。地域誌の『文殊山とかたかみ』を読んで、そのようなことを想像しました。

その越前和紙を原料として、当時開版された正信偈が製本されたのかもしれません。御文章も同じことです。越前和紙の流通には『正信偈』や『御文章』を読む生活習慣がふかく関わっていたことも考えられます。

正信偈を開版するにしても、三椏(ミツマタ)を育てる人はもちろんのこと、和紙をつくる職人さん、版木を彫る職人さんがいなければできません。さらに製本する職人さん、流通させる商人も必要です。

私たちがいま見ている三椏(ミツマタ)の花の背景には、さまざまな人々の歴史があるようです。さらにその背景一つ一つにもまた無数の背景があります。そして、それぞれの背景は幾重にも重なり合っています。その幾重にも重なり合った背景を見ていくことが縁起を見ることになります。

吉崎に集まった百姓たちによって、お念仏が伝えられてきました。

人間の思慮分別を超えた、網の目のように深く重なりあう背景を、経糸(たていと)で紡(つむ)いできたのが、お念仏なのかもしれません。

当時、吉崎に集(つど)った人々と、今の時代に生きている私たちは、お念仏という真実の経糸(たていと)で確かにつながりあっているようです。

「南井の堰堤の上に、この地域で木の実(アブラギリ)や紙の原料になるミツマタ・コウゾの栽培が行われたという掲示がある。アブラギリは隣接の廃村になった三峰や河和田地区でも明治の中頃まで栽培した記録がある。-中略-ミツマタ・コウゾなど紙の原料は昔から製紙業を続けている岡本に売られたものと考えられる。」

文殊山とかたかみ』

写真は2018.08.07~08.09吉崎別院報恩講で布教のご縁をいただいた際に撮影しました。

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