家庭報恩講(かていほうおんこう) ほんこさん
ご門徒の家庭報恩講にお参りしました。いつも、正信念仏偈(行譜)を一緒に読み、そのあと2~3分法話をします。法話の内容は決まっていません。その時のライブです。いつまで続くか分かりませんが2007年から始めました。
正信偈(しょうしんげ) 正信念仏偈
先日、あるご門徒の家で正信念仏偈を読みながら「五濁悪時群生海(ごじょくあくじぐんじょうかい)」という言葉にはっとしました。「五濁悪時」はまさに今の社会です。親鸞さまの時代も今の社会も本質的には何も変わりません。
「五濁悪時」において真(まこと)の支えになる法を顕(あきら)かにしてくださった、親鸞さまのご恩があります。それで、先日の家庭報恩講はそんな法話になりました。
五濁悪時
五濁悪時(ごじょくあくじ※追補1)の現代社会、群生海(ぐんじょうかい※追補2)に生きる一人としてどう生きたらよいのか、その答えが「正」信念仏偈だろうと思います。何が真(まこと)に「正」しいのか今一度考えてみたいと思います。
家庭法座は双方向の法座
法話のあと、お茶を飲みながら会話が続きます。SNSを利用しながらいうものおかしいことですが、私は直接会って会話をすることを、なにより大切にしています。その機会が家庭法座です。家庭法座は私自身の大切な学びの場(法座)でもあります。
ともにお念仏を称え、ともに聞き学びあう、双方向の法座が家庭法座です。これも私自身の考えであり、他の方がどのようにされておられるのかは知りません。それぞれのやりかたがあると思います。
御同朋(おんどうぼう)
法座では社会的立場・資質・能力等のちがいは無意味になり、対等で平等な御同朋(おんとうぼう)の関係になります。阿弥陀さまを中心・共通の親とした兄弟姉妹の関係です。言いかえれば人の力を用いないで、自(おの)ずと横に広がる水平の関係です。そこに喜びがうまれます。
同一の念仏
ご門徒のお念仏の声が聞こえてきました。ご門徒の称える念仏も私の称える念仏も同じ念仏です。
お親鸞さまと2人の法座
帰宅した後も、お念仏の声が聞こえてきます。
よく考えれば、お念仏の声が聞こえる場所は、いつでも、どこでも法座となるのでしょう。私1人でも親鸞さまと2人の法座です。家庭法座の後も親鸞さまとの対話は絶えることがありません。
六字(ろくじ)の法話
お念仏にまさる法話はありません。阿弥陀さまの清浄無我(しょうじょうむが)の心からでた六字の法話です。お念仏が真実であることを説かれたのはお釈迦さまです。そのことを顕(あきら)かにされたのは親鸞さまです。お念仏のでるところ、いつでも親鸞さまにお遇(あ)いすることができます。
家庭報恩講で大切なことを教えていただきました。ありがとうございます。
【心に思い浮かんだ法句(ほうく)】
み法(のり)聞き 念仏称える 秋となる
五濁(ごじょく)の世(よ) 争い尽きぬ 悲しさよ
ほんこさん ともに法聞(ほうき)く うれしさよ
念仏は 末法濁世(まっぽうじょくせ)の 救いかな
合掌
【追補(ついほ)】
五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。 浄土真宗聖典(註釈版)203頁
にごりの世にしまどうもの おしえのまこと信ずべし「しんじんのうた」※1五濁(ごじょく)
悪世(あくせ)においてあらわれる避けがたい5種のけがれのこと。
①劫濁(こうじょく):時代のけがれ。飢饉や疫病、戦争などの社会悪が増大すること。
②見濁(けんじょく):思想の乱れ。邪悪な思想、見解がはびこること。
③煩悩濁(ぼんのうじょく):貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)などの煩悩が盛んになること。
④衆生濁(しゅじょうじょく):衆生の資質が低下し十悪をほしいままにすること。
⑤命濁(みょうじょく):衆生の寿命が次第に短くなること。
浄土真宗辞典209頁
天台大師(てんだいだいし)の釈によると、見濁(けんじょく)が中心ともいわれる。
見濁は自是他非(じせたひ)の固執(こしゅう)によるもので、国際的な戦争をはじめ、集団と集団、個人と個人、すべての人間の争いの因由(いんゆ)といわれる。人類をみずからの手によって破滅せしめる原爆の犯人も正しくこの見濁によるものである。
それ故、次に命濁の果を生むのである。現代人は特に反省すべき仏教の世界観といわれる。
浄土真宗用語大辞典(上巻)260頁
※2群生海(ぐんじょうかい)
一切衆生(いっさいしゅじょう)のこと。衆生の数が多いことを海に喩(たと)えた語。
浄土真宗辞典153頁
以上2022.10.06
2023年10月14日午後2時法話会 法話の趣旨
昭和53年から法話会(旧御講)で話しをするようになりました。話しをするためには自分が聴聞し学ばなければならず懸命に学びました。その繰り返しで怠惰な自分が育てられたと思います
同時期に家庭報恩講(ほんこさん)にお参りをするようになりました。多くの家で仏間は一番奥です。信用がないと家の奥まであげてもらうことはできないでしょう。また質問されればある程度正確なことを答える必要があります。そして個人的な悩みを聞いたり、さまざまな個人情報を知ることもあります。
そのためにはいろんなことを学び続け、個人情報は一切口外しないことが大切だと思います。個人的にも人の噂話は嫌いです。
家庭報恩講(ほんこさん)で学んだのは信頼を得ることの大切さ。どんなに努力して得た信頼でも、一つの言動が原因で一瞬で壊れます。信用・信頼の大切さを在家報恩講で学び、そして心を育てられました。
生きることは学び育てられていくこと。その根底にはお釈迦さまの教えに学び、阿弥陀さまの心に育てられるという浄土真宗の教えがあります。報恩講の報恩は教え・育て・導いていただいたご恩に称名念仏で報いること。
正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ) 浄土真宗聖典(註釈版)205頁
だだよくつねに如来(にょらい)の号(みな)を称(しょう)して、
大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩(おん)を報(ほう)ずべしといへり
仏前で正信偈を読誦するとき、なんども「悪」「濁」という言葉にあいます。
「極重悪人唯称仏」「拯済無辺極濁悪」。それが私自身のことだとようやく思えるようになってきました。
阿弥陀さまの清浄(しょうじょう)な智慧の光で、内心の奥深く隅々まで照らされて映し出されるのは、まさしく自身の「極濁悪(ごくじょくあく)」。とても悲しいし恥ずかしい姿です。そして今まで肉眼で見ていたのは他人の濁悪。
自分の内心には、理性分別でコントロールできないものがあります。それは導火線のついた爆弾のようなもの。条件が揃えばいつ爆発するか分かりません。導火線に火がつかないように慎重に生きるしかありません。
家庭報恩講でともに手を合わせ、阿弥陀さまの光を依り処として、お互いに自分自身を謙虚にかえりみる。それが家庭報恩講(ほんこさん)で学び育てられた心です。そのようなわけですから家庭報恩講を勤めていただきたいと思います。
前住職(釋顕英)の法歌
よしあしを 人の上には いいながら み(身)にかえりみる 人なかりけり
親鸞聖人 愚禿悲歎述懐(ぐとくひたんじゅっかい)
浄土真宗聖典(註釈版)67頁
浄土真宗に帰(き)すれども 真実の心(しん)はありがたし
虚仮不実(こけふじつ)の わが身(み)にて 清浄の心(しん)も さらになし
85歳を過ぎられた聖人が自らを悲歎(ひたん)述懐(じゅっかい)された言葉です。
清浄の心もさらになし。清らかな心の一片もないというのは換言すれば極濁(ごくじょく)ということになります。自身の心が濁りきっていると述懐されています。
2023.10.14