生きとし生くるものすべて このみひかりのうちにあり
(しんじんのうた)
忘れられないできごとがあります。津久井やまゆり園事件です。2016年7月26日
神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所していた19名の方々がその尊い命を失い、26名が重軽傷を負うというとても悲しい事件がありました。
差別や偏見をおそれて、実名を公表できない人も多くいました。障がい者に対する差別や偏見は今でもあります。実名を公表した人たちの思いにも、公表しなかった人たちの思いにも、公表できなかった人たちの思いにも、私には共感できます。
今まで布教活動をしてきたのは「障がいのある人も、障がいのない人も、安心して暮らせる世のなかになって欲しい」そんな思いもあったからです。2度とこのような事件がおきて欲しくないと思いました。
事件にとても大きな衝撃を受けて、いたたまれない思いとなり、ご門徒のご協力を得て、2016年8月15日にお盆の法要と併せて「津久井やまゆり園事件・追悼法要」を勤めました。
阿弥陀さまの誓願(せいがん)は「すべてのものを摂め取り、一人も見捨てない」という誓願です。被害にあわれた方たちにも、阿弥陀さまの誓願は必ず届いているはずだし、もし一人でも救いからもれるようなことがあれば誓願は成就しません。
生産性の有無で「いのちの尊厳」は量(はか)れないし、生まれる価値のない人、生きる価値のない人はいません。いのちの尊厳を量(はか)る、量(はかり)そのものが無いから無量なのです。
私自身がみ教えに学んできた原点はここにあります。言葉の意味を理解したり、意思疎通をすることが困難な人、いろんな問題をかかえながら声をあげることができない人、その人たちの救いとはどのような救いなのでしょうか。その人たちの視点に立って、ともにみ教えに学び親鸞さまに聞いています。そうすれば、自ずと自分自身のありようも問われてきます。
そんなとき思い出す言葉があります「人間よ、人間を敬いなさい」です。
ドイツでは第2次世界大戦の時、多くの知的障がい者や精神障がい者などがいのちを奪われました。障がい者たちはガス室で最期を迎えたのですが、ハダマーという小さな町の精神病院の地下には今もガス室の跡が残っています。ハダマーの墓地にある被害者を追悼する記念碑に書かれている言葉が「人間よ、人間を敬いなさい」です。
恭敬の心(真実つつしんで敬う心)は、私の内心にはありません。阿弥陀さまからいただくしかありません。
自分一人の救いでは完結しないのが浄土の救いです。
敬う心のない自身に慚愧(ざんぎ)して、敬いあうことの喜びを分かちあいたい。人と人がお互いに敬いあう人間関係・御(おん)同朋(どうぼう)の人間関係をめざして、まず私自身が一人の人として一歩踏み出したいと思っています。合掌
【お釈迦さま】
ダンマパダ130
すべての者は、暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって、生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
スッタニパータ147
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
『ブッダの言葉』中村元訳 岩波文庫 37頁
【親鸞さま】
一切群生蒙光照
『註釈版聖典 行文類』203頁
生きとし生くるものすべて このみひかりのうちにあり(しんじんのうた)
無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。慚愧あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるがゆゑに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。
『註釈版聖典 信文類』275頁
如来一切のために、つねに慈父母となりたまへり。
まさに知るべし、もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり。『註釈版聖典 信文類』288頁
信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり
『註釈版聖典 浄土和讃』573頁
「如来尊号甚分明」
「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり。
「明」はあきらかなりといふ。十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。『註釈版聖典 唯信鈔文意』700頁
れふし・あき人、さまざまのものはみな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。れふし・あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどをよくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。
『註釈版聖典 唯信鈔文意』708頁
一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。
よしあしの文字をもしらぬひとはみな、まことのこころなりけるを、
善悪の字しりがほは、おほそらごとのかたちなり。
意訳
善(よ)し悪(あ)しの文字の意味を知らない人は、みな真(まこと)の心がありますが、善や悪の意味をさも知っているかのようなふりをしている人は、内心が虚(むな)しく実を結ぶことがないから、口からでてくる言葉もみな虚言(そらごと)となるのです。
この稿は未完です。おそらく生涯未完かもしれません。求め続けるしかないと思います。聖典の言葉は本来なら全部を意訳したいところなのですが、時間的な制約があり思うようにいきません。ご容赦ください。