ほうわ

み教えに学び自分自身をふりかえります

知恵(ちえ)と智慧(ちえ)

                           知恵(ちえ)と智慧(ちえ) 

人間の知恵(ちえ)と仏教の智慧(ちえ)
分断の本質 人間関係を分断するもの・その本質を考える

1.人間の知恵 比較するちえ

本当の豊かさとは
お釈迦さまや親鸞さまの生きられた時代の暮らしと、現代に生きる私たちの暮らしはは大きな違いがあります。効率性や利便性においては大きく変化しました。

しかし、よく考えてみると昔も争いはあり現在も争いはあります。昔は刀や弓矢を武器として使用していたのが、現代では核兵器・ミサイル等を武器とした争いになっています。人間は本当に豊かになったといえるのでしょうか。

本質的な愚かさ
人間の本質は少しも変わっていないようです。その人間の本質的な愚かさを見つめていくのが仏教です。決して死後の世界だけを問題としているわけではありません。

人間関係の問題
今を生きる私たちの関係性を問題としています。人間とは人間関係のことです。私たちの人間関係は上下、強弱、優劣などの関係性になっているのではないでしょうか。その自己中心的な関係性が苦悩の原因となっているようです。

人間の知恵
私たちが日常の暮らしでさまざまなことを学びますが、その人間の知恵を分別智(ふんべつち)といいます。

比較をする知恵
知識を増やし理解する。そして得た知識に基づいて一つ一つのものごとを分別し、比較をします。比較した結果に基づいて正しく判断しようとする。これが分別智というものです。より多くの知識や情報を得て、より多く記憶し、より早く理解し分別することが求められます。
そこでは資質・能力の違いが生じ優劣が判断され、常に比較がともないます。

自分中心の知恵
また問題なのは、分別するのも比較するのも判断するのも、無意識のうちにすべてが我に執着して、自分中心の狭い世界のなかで比較・判断しているということです。分別心は人間の本能に基づくものです。

春秋を識(し)らない蝉(せみ
そのうえ、自分中心の狭い世界という認識もまったくありません。智慧がない愚かな私たちは、すべてのものごとが一つの如くつながりあっている、広大な世界が見えないからです。
春秋をしらない蝉(せみ)は今が夏であることもしらないのと同じです。そのことを無明(むみょう)といいます。私たちも蝉(せみ)なのです。

正義の危うさ
善悪、優劣、上下、強弱、損得、正邪、尊卑など、自分にとって都合のよいことが善であり正しいと判断しようとします。我に執着し、自分にとって都合のよいことを是とし、自分にとって都合のわるいことを非として排除しようとします。
正義を確信する思いが強いほど邪悪を許せなくなり憎しみが生じます。無明(むみょう)という酒に酔っている凡夫に真実正しい道理(義)は語れません。

苦しみの根本
人間の理性分別(りせいふんべつ)・思慮分別(しりょふんべつ)には限界があります。
仏教ではこの分別心が苦しみの根本であるとしています。


分断する刃(やいば

分別・判断について『字統 普及版』白川静著に次のように書かれています。
①分                       
八と刀とに従う。八はものが両分する形。刀でものを両分する意。分は肉を分かつ形とみてよい。
②別                        
骨節のところを刀で分解する意。すべてのものを分離解体し、区分区別する意に用いる。     
③判  
判は刀を加えて両分の意を示す。
③断                         
斤(おの)を加えて糸を切断することを断という。

根本的な愚かさ
これらをみていくと、人間の分別心は刀(やいば)を加えてつながりを分断しようとするものだということのようです。分断(ぶんだん)が苦を生みますが、それは現代に限ったことではなく、人間が本質的にもっているものだといえます。そして我執の故にその自覚も全くありません。それが根本的な愚かさなのでしょう。

いのちの選別
日常の暮らしでは分別心なくしては生きていくことができません。しかし分別してはいけないものがあります。それは「いのちの尊厳」です。生まれ・性別・職業などて優劣、尊卑、上下に分別することは「いのちの選別」になります。

いのちのつながりが分離解体されるとき、人は使い捨ての部品(歯車)となり、生産性や資質・能力の有無で、生きる価値そのものが判断されるようになります。また人を労働力という消耗品として考えることも同じですが、それはとても危ういことです。


2.仏教の智慧 
  比較する量(はかり)が無い智慧(ちえ)

無分別智(むふんべつち)
仏教の智慧とは、知識・記憶・理解の対象になるものではありません。
人間の知恵(分別智)に対して仏陀(ぶつだ)の智慧(ちえ)を無分別智(むふんべつち)といいます。

平等の智慧(ちえ)
我執を離れて、あらゆるものごとを、お互いに連続してつながりあっている縁起をみる智慧です。我執がないのですべてを偏(かたよ)ることなく平等にみることができます。

自他一如(じたいちにょ)
そのような世界のことを自他一如(じたいちにょ)とか生死一如(しょうじいちにょ)といいます。
一如の如とは「ごとし」ということです。一つだと断定はできないが、不二(ふに)であり二つでもない、一つのようだという意味で、換言すれば言葉では表現できないということになります。
一如と不二は紙の表裏の関係で、同じことを表現しているものだろうと考えます。一如だといえば一如に執着し、不二といえば不二に執着するのが私たちですから、どちらとも断定できないこのような表現になるのではないでしょうか。「~に非ず、~にも非ず、~にも非ず・・・」というようなことになります。

比較がない
自他一如(じたいちにょ)とは、自(私)と他(私以外の他・生きとし生けるものすべて)が、分けることができない不可分の関係であるということです。敵味方に分けることもできません。
分けることができないというより、分けることが無意味であるといったほうが適切かもしれません。比較することも無意味です。
適切な譬えかどうか分かりませんが氷が融けて水になった時、水を元の氷のように分けることが無意味であることと同じです。

はかりなし  量(はかり)の無い世界
無量(むりょう)という言葉がありますが、一つにつながりあっているから比べる量(はかり)が無いことになります。量(はかり)で比べることが無意味であるということだと味わっています。計(はか)らい・思慮分別(しりょふんべつ)を超えた世界があります。

智慧と慈悲
私たちが浄土に往生し、成仏して仏陀(ぶつだ)になるというのは、この無分別智(むふんべつち)を得るためです。そして阿弥陀如来智慧こそが、あらゆる諸仏の智慧を集めた究極の智慧だといわれます。
無分別智(むふんべつち)を得ると大悲心が発(おこ)り迷いの衆生を救うことになります。

衆生とともに往(ゆ)く
成仏するということは自分一人の救いでは、完結できなくなるということです。十方衆生が救われなければ、私自身のすくいも完結しません。そのような世界を衆生とともに願って往(ゆ)く、そのこと自体が救いなのでしょう。
それも阿弥陀如来から回向(えこう)された心です。思えば自分一人の救いを望んでいたのも自己中心でした。

智慧にみちびかれて
分別心は苦悩の根本にありますが、自分で取り除くことはできません。自分で自分の眼を見ることができないのと同じです。阿弥陀如来智慧に導かれたときのみ苦悩の根本を解決できます。

南無阿弥陀仏智慧の名号(みょうごう)
言葉で表現できない世界から、唯一言葉となって届いているのが南無阿弥陀仏智慧の名号です。分別心をなくすことはできませんが、智慧の名号を拠(よ)り処としたとき苦悩の世界を離れ、衆生とともに喜びを分かちあえる真実の世界に往くことができます。

智慧南無阿弥陀仏に導かれて生きるしかありません。


南無阿弥陀仏智慧の名号(みょうごう)
唯信鈔文意
 浄土真宗聖典(註釈版)701頁


※以上記したことは私自身の味わいであり間違っているかもしれません。    

 

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