ほうわ

み教えに学び自分自身をふりかえります

弁円(べんねん)さん

弁円さんゆかりのお寺 大覚寺

板敷山 大覚寺  茨城県石岡市大増3220

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親鸞聖人絵伝 

板敷山で親鸞さまを待ち伏せする弁円さん

親鸞さまのお住まいに向かう弁円さん



親鸞さまにおあいして 後悔の涙を流し 教えを聞く弁円さん

親鸞聖人絵伝は「異時同時画法」で描かれています。これは当時の絵伝の表現方法で

、同じ画面に同一人物が複数かかれていますが、これは右から左へと時間が経過していることを表しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

憎しみの連鎖

ウクライナパレスチナにおける戦争の報道を見るたびに心が暗くなります。世のなかとは私自身を含めた世のなかですから、憎しみを連鎖をとめなければならないのは、私自身の問題でもあると思います。
自分自身の内心に潜んでいる憎悪を、自分の力で取り除くことはできるのでしょうか、
弁円さんに聞いてみたいと思います。

山も山 道も昔にかはらねど かはり果てたる 我こころかな

親鸞さまを殺めようとした山臥(やまぶし)の弁円さん(後の明法房)の詠んだ歌といわれています。

阿弥陀さまの誓いを信じる心が深くなると、三毒の煩悩を好んでいる自分の生き方が恥ずかしくなり、その生き方に自ずと変化が生じてくるという意味でしょう。

親鸞さまが常陸国茨城県)におられた頃のことです。親鸞さまの伝道教化活動をこころよく思っていなかった山臥の弁円さんは親鸞さまに強い怨みをいだき、殺めようとして板敷山(いたじきやま)の中で待ち伏せをしましたが、なんど待ち伏せしても行き違いになるばかりで、目的を果たすことができませんでした。

弁円さんにとって板敷山は怨み憎しみの山だったでしょう。

板敷山を出て、稲田の草庵で親鸞さまにであったあと、同じ山道を通って親鸞さまのもとに通うときには、以前は怨み憎しみの山道だったのが、怨み憎しみは消えて慶びの山道に思えてきたのかもしれません。山の木々も、草も花も谷川の水もみんな輝いて見えたのでしょう。

板敷山はなにも変わっていませんが、親鸞さまに遇い、阿弥陀さまの誓いを信じるようになってから弁円さん自身が変わったのです。

お念仏を称え阿弥陀さまの願いを信じる心が深くなると、まわりの平凡な風景が美しく見え、毎日の生活水が八功徳水(はっくどくすい)に思えてくる。平凡な人が尊厳ある人に思えてくる。支えあって生きている人を敬う心が生じてくる。平凡な日常の暮らしが愛おしく思えてくる・・・。

そう考えると弁円さん(明法房)は、私たち自身のこととして味わうことができます。私たちにも怨み憎しみの心が潜んでいます。また、板敷山は私たちが生きているこの迷いの世界(生死の世界)だと考えることもできます。生死(しょうじ)出(い)づべき道を歩まなければならないのは、いまの私たち自身ではないでしょうか。

仏教の説話はそれが事実かどうか詮索する以前に、その物語がどのような精神を象徴しているのかを考えるものなのでしょう。

「心をひるがえす」のも「心を思いかえす」のも、阿弥陀さまの願いの力(はたらき)によるものです。回心(えしん)というのも同じことです。自分の力で嫉(そね)み憎しみ・妬(ねた)み憎しむ心を打ち消すことは容易なことではありません。

その心をひるがえす力は阿弥陀さまの本願力よりほかにはないのでしょう。

親鸞さまはお手紙のなかで、かつては自身の命を奪おうとした明法坊(みょうほうぼう)の往生のことを「明法御房の御往生」と尊敬の意(こころ)をもって記されています。
阿弥陀さまの慈悲心により、弁円さんの心も次第に憎嫉(ぞうしつ)から尊敬の念に変わっていきました。

親鸞聖人御消息 第4通
明法房などの往生しておはしますも、もとは不可思議のひがごとをおもひなんどしたるこころをもひるがへしなんどしてこそ候ひしか。
浄土真宗聖典(註釈版)743頁

意訳
明法房などが往生されたのも、かつてはとんでもない誤った考えを持っていたその心を、思いかえしたからにほかなりません。

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かおりに生きる花の はなし

ある寺院の掲示板より

掲示板の言葉「姿より かおりに生きる 花もある」
ある寺院の掲示板に書かれている言葉を見て心がひかれスマートフォンで撮影。この掲示板の言葉は同級生が手書きで書いたものです。お寺の人ではなく一般門徒です。
今年古稀の同級生ですが、仏法をともに味わう法友としてあうことができることは、なによりもうれしいことです。そんなことを先日会ったときにも話しました。

お互いに思うようにならない人生を歩んできました。それを承知のうえで写真を見ながら心のなかで法友と会話をしています。

知人との会話
最近、お互いにスマートフォンの写真などを見ながら、会話をすることが増えたのですが、先日、ある知人のスマートフォンに保存してあった写真を見せていただき驚きました。

自宅の庭土を掘り返したようなあとがあるので、市に動物捕獲の檻を設置してもらったところ、アナグマハクビシン・キツネがつづけて捕獲されたとのこと。そんなことがあるなんて・・、でもキツネはかなり痩せていました。

直接対面して対話をするのが一番
私も最近、ご門徒や知人にスマートフォンの写真やブログを見せながら、会話をすることがよくあります。もちろん直接対面し相手の顔を見て、肉声を聞きながら対話をするのが一番落ち着きます。そのうえでの話しです。写真が実際に対面して会話をする時、意思疎通をはかる手段の一つになっています。

門徒との会話
今日もご門徒宅にお参りをして、宮ノ下コスモス広苑や、境内ケヤキの写真・法話ブログ等を一緒に見ながらいろいろと会話がはずみました。

花の名前や開花状況、咲いている場所等を教えていただくこともあります。

職業上の体験

長く写真現像・プリントの仕事をしていたときに、写真が意思疎通をはかる手段になっていたことを何度も体験しました。お客さまと写真のことで会話をすることもよくあることてした。プライベートのことなので、こちらから話しかけることはあまりありませんでしたが、お客さまが自ら語られることはよくあること。

遺影が語る人生の物語
一枚の写真のなかに人生の物語があることも・・・。遺影にも物語があります。生前に自分の遺影を用意しておきたいと、現像・プリントを依頼されたことが何度もありました。

思い出の写真
誕生・入園・入学・卒業・成人式・就職・結婚・出産・退職・死別。自然・花・趣味・旅行・商品・現場・事件・事故・災害・・・。

さまざまな思い出の写真をどれだけ現像・プリントしたか。とても数えることはできません。どこかの、だれかのアルバムのなかで、物語を語っていることだろうと思います。

ただ、事件・事故・災害・死別の写真には辛く悲しい物語もあります。辛く悲しい物語をたくさん聞いたから、今は植物や小動物の姿を見つめて、癒されたいのかもしれません。
また学生時代に所属したサークルの過去・現在の写真をSNSアルバムで共有して、全国に点在している友人たちとトークをしています。

信心の花 お念仏のかおり
法座で写真を見ながら法話をすることもよくあります。プロジェクターを用いたり、楽器を演奏したり、歌を歌って法話をする人たちと同じです。

法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の尊い物語が背景となり、心に信心の「花」が開き、智慧(ちえ)の「かおり」が弘まる、そんな話しを・・・。

これからも新しい物語を撮影し続けたいと思います。
どこかで、だれかと尊い物語を語りあうために・・・。

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家庭報恩講(ほんこさん)で育てられた心

 

お仏壇


家庭報恩講(かていほうおんこう) ほんこさん

門徒の家庭報恩講にお参りしました。いつも、正信念仏偈(行譜)を一緒に読み、そのあと2~3分法話をします。法話の内容は決まっていません。その時のライブです。いつまで続くか分かりませんが2007年から始めました。

正信偈(しょうしんげ) 正信念仏偈
先日、あるご門徒の家で正信念仏偈を読みながら「五濁悪時群生海(ごじょくあくじぐんじょうかい)」という言葉にはっとしました。「五濁悪時」はまさに今の社会です。親鸞さまの時代も今の社会も本質的には何も変わりません。
「五濁悪時」において真(まこと)の支えになる法を顕(あきら)かにしてくださった、親鸞さまのご恩があります。それで、先日の家庭報恩講はそんな法話になりました。

五濁悪時
五濁悪時(ごじょくあくじ※追補1)の現代社会、群生海(ぐんじょうかい※追補2)に生きる一人としてどう生きたらよいのか、その答えが「正」信念仏偈だろうと思います。何が真(まこと)に「正」しいのか今一度考えてみたいと思います。

家庭法座は双方向の法座
法話のあと、お茶を飲みながら会話が続きます。SNSを利用しながらいうものおかしいことですが、私は直接会って会話をすることを、なにより大切にしています。その機会が家庭法座です。家庭法座は私自身の大切な学びの場(法座)でもあります。

ともにお念仏を称え、ともに聞き学びあう、双方向の法座が家庭法座です。これも私自身の考えであり、他の方がどのようにされておられるのかは知りません。それぞれのやりかたがあると思います。

御同朋(おんどうぼう)
法座では社会的立場・資質・能力等のちがいは無意味になり、対等で平等な御同朋(おんとうぼう)の関係になります。阿弥陀さまを中心・共通の親とした兄弟姉妹の関係です。言いかえれば人の力を用いないで、自(おの)ずと横に広がる水平の関係です。そこに喜びがうまれます。

同一の念仏
門徒のお念仏の声が聞こえてきました。ご門徒の称える念仏も私の称える念仏も同じ念仏です。

親鸞さまと2人の法座
帰宅した後も、お念仏の声が聞こえてきます。
よく考えれば、お念仏の声が聞こえる場所は、いつでも、どこでも法座となるのでしょう。私1人でも親鸞さまと2人の法座です。家庭法座の後も親鸞さまとの対話は絶えることがありません。

六字(ろくじ)の法話
お念仏にまさる法話はありません。阿弥陀さまの清浄無我(しょうじょうむが)の心からでた六字の法話です。お念仏が真実であることを説かれたのはお釈迦さまです。そのことを顕(あきら)かにされたのは親鸞さまです。お念仏のでるところ、いつでも親鸞さまにお遇(あ)いすることができます。

家庭報恩講で大切なことを教えていただきました。ありがとうございます。

 

【心に思い浮かんだ法句(ほうく)】

み法(のり)聞き 念仏称える 秋となる

五濁(ごじょく)の世(よ) 争い尽きぬ 悲しさよ
ほんこさん ともに法聞(ほうき)く うれしさよ 

念仏は 末法濁世(まっぽうじょくせ)の 救いかな
合掌

【追補(ついほ)】
五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。   浄土真宗聖典(註釈版)203頁
にごりの世にしまどうもの おしえのまこと信ずべし「しんじんのうた」

※1五濁(ごじょく)
悪世(あくせ)においてあらわれる避けがたい5種のけがれのこと。
①劫濁(こうじょく):時代のけがれ。飢饉や疫病、戦争などの社会悪が増大すること。
②見濁(けんじょく):思想の乱れ。邪悪な思想、見解がはびこること。
③煩悩濁(ぼんのうじょく):貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)などの煩悩が盛んになること。
衆生濁(しゅじょうじょく)衆生の資質が低下し十悪をほしいままにすること。
⑤命濁(みょうじょく)衆生の寿命が次第に短くなること。
浄土真宗辞典209頁


天台大師(てんだいだいし)の釈によると、見濁(けんじょく)が中心ともいわれる。
見濁は自是他非(じせたひ)の固執(こしゅう)によるもので、国際的な戦争をはじめ、集団と集団、個人と個人、すべての人間の争いの因由(いんゆ)といわれる。人類をみずからの手によって破滅せしめる原爆の犯人も正しくこの見濁によるものである。
それ故、次に命濁の果を生むのである。現代人は特に反省すべき仏教の世界観といわれる。
浄土真宗用語大辞典(上巻)260頁


※2群生海(ぐんじょうかい)

一切衆生(いっさいしゅじょう)のこと。衆生の数が多いことを海に喩(たと)えた語。
浄土真宗辞典153頁

 

以上2022.10.06

2023年10月14日午後2時法話会 法話の趣旨
昭和53年から法話会(旧御講)で話しをするようになりました。話しをするためには自分が聴聞し学ばなければならず懸命に学びました。その繰り返しで怠惰な自分が育てられたと思います

同時期に家庭報恩講(ほんこさん)にお参りをするようになりました。多くの家で仏間は一番奥です。信用がないと家の奥まであげてもらうことはできないでしょう。また質問されればある程度正確なことを答える必要があります。そして個人的な悩みを聞いたり、さまざまな個人情報を知ることもあります。

そのためにはいろんなことを学び続け、個人情報は一切口外しないことが大切だと思います。個人的にも人の噂話は嫌いです。

家庭報恩講(ほんこさん)で学んだのは信頼を得ることの大切さ。どんなに努力して得た信頼でも、一つの言動が原因で一瞬で壊れます。信用・信頼の大切さを在家報恩講で学び、そして心を育てられました。

生きることは学び育てられていくこと。その根底にはお釈迦さまの教えに学び、阿弥陀さまの心に育てられるという浄土真宗の教えがあります。報恩講の報恩は教え・育て・導いていただいたご恩に称名念仏で報いること。

正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ) 浄土真宗聖典(註釈版)205頁

だだよくつねに如来(にょらい)の号(みな)を称(しょう)して、

大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩(おん)を報(ほう)ずべしといへり

仏前で正信偈を読誦するとき、なんども「悪」「濁」という言葉にあいます。
「極重悪人唯称仏」「拯済無辺極濁悪」。それが私自身のことだとようやく思えるようになってきました。

阿弥陀さまの清浄(しょうじょう)な智慧の光で、内心の奥深く隅々まで照らされて映し出されるのは、まさしく自身の「極濁悪(ごくじょくあく)」。とても悲しいし恥ずかしい姿です。そして今まで肉眼で見ていたのは他人の濁悪。

自分の内心には、理性分別でコントロールできないものがあります。それは導火線のついた爆弾のようなもの。条件が揃えばいつ爆発するか分かりません。導火線に火がつかないように慎重に生きるしかありません。

家庭報恩講でともに手を合わせ、阿弥陀さまの光を依り処として、お互いに自分自身を謙虚にかえりみる。それが家庭報恩講(ほんこさん)で学び育てられた心です。そのようなわけですから家庭報恩講を勤めていただきたいと思います。
  
前住職(釋顕英)の法歌
よしあしを 人の上には いいながら み(身)にかえりみる 人なかりけり
 

親鸞聖人 愚禿悲歎述懐(ぐとくひたんじゅっかい)  
浄土真宗聖典(註釈版)67頁
浄土真宗に帰(き)すれども 真実の心(しん)はありがたし
虚仮不実(こけふじつ)の わが身(み)にて 清浄の心(しん)も さらになし
  

85歳を過ぎられた聖人が自らを悲歎(ひたん)述懐(じゅっかい)された言葉です。
清浄の心もさらになし。清らかな心の一片もないというのは換言すれば極濁(ごくじょく)ということになります。自身の心が濁りきっていると述懐されています。

 

2023.10.14

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一粒の涙

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秋も深まったある日のことです。一人の少年がお寺の境内で遊んでいました。

山のふもとにあるお寺は見晴らしがよく、遠くの 山や田んぼ、そして友だちの家も見えます。

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どこからか赤とんぼが飛んできて、近くで羽根を休めました。

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ふと足もとを見ると、そこには小さな石がころがっています。どこにでもあるような平凡な小石です。

いま初めて気づいたのですが、もしかしたら何年も前から、いいえ 何十年も前から、そこにいたのかも しれません。

赤とんぼを乗せて少し くすぐったい様子です。

しばらく座ってじっとながめていると、小石の いろいろな思いが伝わってくるような気がしました。

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桜の花びらを乗せてうきうきしたこと。

夏の日照りでやけどしたこと。

夜空の星にあこがれ、星のように輝きたいと思ったこと。

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鈴虫の声にうっとりして、いっしょに歌いたいと思ったこと。

だけど、それだけではありません。

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木枯らしの寒かったこと。だれかに踏まれて痛かったこと。だれにも痛いと言えず悲しかったこと。

そんな思いを少年に話しかけているように感じたのです。

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どれだけ時間が過ぎたのでしょう。見わたすともう夕暮れ時です。

虫の声も、あちこちから聞こえてきました。小石もいっしょに歌っています。

遠くの山に、大きな夕日が時を惜しむように、ゆっくりと沈んでいきます。

赤や黄色に 彩られた山々、収穫の終わった 田んぼ、鳥や虫、明りの灯った家、家路を急ぐ友だち。

すべてが、それぞれの色、それぞれの姿のまま、空一面 赤く染まった夕焼けに、深く深くつつまれて 輝いています。

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小石もまるで黄金のようにキラキラ 輝いています。

お寺で聞いたあみださまの国のようです。

入り日色は、お仏壇のなかに灯るロウソクの炎と同じ色です。

ごえんさんの話しを、思い出しました。

「いのちあるものすべてが、あみださまの光に照らされ、あみださまの心につつまれているんだよ」

「それぞれの思いや姿はちがっていても、みんな、かけがえのない尊いいのち、同じ なかまなんだね」

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なぜだか分からないけれど、心のなかがじんわりと温かくなりました。
 
思わず小石をそっと拾い、慈しむように両手で やわらかく つつんだとき、目から一粒の涙がこぼれて、きらりと光りました。

少年の唇がかすかに動いています。

「なもあみだぶつ」

その声が遠くの山々までこだましたように思えました。

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その時、少年の名をよぶ声が聞こえてきました。

帰りが遅いのを心配して迎えにきた、お母さんの声です。

夕闇のなかに ぼんやりとお母さんの姿が現れてきました。

よび声とともに・・・。

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あとがき  さとみ じゅんえい

本は子ども限定とは限りません。大人も読んだり聞いたりして感動します。意味の難しい言葉があるかもしれませんが、日本語の語感も大切だと考えました。すぐに理解できなくても大人と一緒に考えたり、絵で表現したりする方法もあるでしょう。

また、何度も読むうちに、それぞれが自由に情景を想像できるようになるというような、曖昧さもあってよいのではないでしょうか。

最近は、仮想空間で得た情報や知識を、偏重する傾向にあるような気がします。それも大事だとは思いますが、子どもの頃から豊かな情景を五感で感じたり、人の心を想う情感を育てることも大切なように思います。

日常の暮らしで見聞きした情景を、風土のなかで生まれた言葉で表現する。そんな豊かさがあるように思います。

素敵な絵を描いていただいた方に深く感謝致します。
2019(令和元)年9月

 

追記

以前に創作した絵本の体裁を変えて、PC、スマートフォンタブレット仕様にしました。見づらいとは思いますがご容赦ください。

親鸞さまの書かれた『唯信鈔文意』に「いし・かわら・つぶてのような、わたしたち」という言葉があります。
瓦礫(がれき)のように価値のないものと思われているものが、本当は尊く輝いていることに気づいてもらいたいと思います。

瓦礫(がれき):価値のないもののたとえ。

礫(つぶて):小さい石。

唯信鈔文意

れふし・あき人、さまざまのものはみな、いし・かはら・つぶてのごとく なるわれらなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにをさめとられまゐらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし・あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどをよくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。

浄土真宗聖典(註釈版) 本願寺出版社

 

『絵本はこころの架け橋』岡田達信著 瑞雲舎
を読んでいます。

作家の柳田邦男さんは「絵本は人生で三度読むべき」だと提唱されています。
「一度目」は幼い時、「二度目」は親になった時、「三度目」は人生の後半に差しかかった時です。柳田さんの言葉を借りれば、私は「一度目」をよく憶えておらず、「二度目」で絵本に出会い直し、そのまま途切れることなく「三度目」に入ったようです。本書をよんで感じて頂けたように、「三度目」の絵本にはたくさんの宝が埋まっているのです。

越前市ゆかりの、かこさとしさん、いわさきちひろさん
の絵本は三度目に読んでも、新たに感動する絵本なのだろうと思います。

私も三度目に読んでも感動する「ほうわ」の絵本がつくりたくて、
何年か前に絵本『一粒の涙』つくりました。
そこに描いたのは私自身の姿です。

絵は共感してくださった、某寺院の坊守様とそのお孫さんが画いてくださいました。
寺院、高齢者施設、児童養護施設などいろんなところで読み聞かせをして、
多くの方に喜んでいただきました。
絵本読み聞かせの法座があつてもよいのではないかと考えています。

2023.09.19更新

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真宗教団連合講演会聴聞記

本願寺福井別院本堂で真宗各派合同の勤行

1.真宗教団連合

先日、本願寺福井別院を会場として、真宗教団連合福井県支部の第52回公開講演会が開催されたので聴聞しました。

講題:『教行信証』には何がかかれているか
講師:阿部信幾師(本願寺派布教使/群馬県みどり市西福寺住職)
期日:令和5(2023)年9月2日(土曜日)
会場:本願寺福井別院(西別院)本堂・大ホール            

開会式は本堂で開催され、講演会は大ホールに会場を移して開催されました。
予想していた以上の多くの方が参加して少々驚きました。 
広い大ホールですが座席が足りなく、椅子を増やして対応。

真宗十派の門信徒が宗派を超えて、一同に集まり聴聞する真宗教団連合福井県支部の研修会・講演会は毎年会場を変えて開催されています。
真宗十派はかつての歴史では対立したときもありましたが、今はお互いに研鑽を深めています。
お勤めや作法そして歴史は異なりますが、同じ親鸞聖人を敬うなかまであることには違いありません

この別院には以前は布教・研修会・会合などで、幾度となく通いタイムカードが欲しいくらいでしたが、役職をすべて退いてからは行く機会も少なくなりました、今回は多くの旧知の方とも出会い久しぶりに歓談。いろんな困難をともに超えてきた仲間です。


2.真宗三門徒派門主挨拶
開会式の際に真宗三門徒派門主の挨拶があったのですが、印象に残った挨拶でした。
「ただ念仏する教えの浄土真宗真宗学が成り立つのか?」というご自身に対する問いかけです。

その後に言われたのは
真宗学を学ぶというのは、親鸞聖人の学び方を学ぶということではないか」という言葉でした。
そしてさらに次のように言い換えられました
真宗学を学ぶというのは、親鸞聖人の学び方に学ぶといこうとではないか」

ご自身の言葉を選びながら話されているように感じました。
「学び方を」と「学び方に」は「を」と「に」の一字しか違いませんが、意味には大きな違いがあります。ながく思案された結果の言葉だったのでしょう。

今まで福井別院での会合や研修会で何度も議論されてきたことですが「み教えを学ぶ」と「み教えに学ぶ」では、意味は大きく異なります。

「み教えに学ぶ」という場合には主体は「私」になります。「み教えに学ぶ」という場合には主体は「み教え」すなわち釈迦如来ということになります。み教えとはすなわち本願ですから根本の主体は阿弥陀如来となります。

親鸞聖人のお聖教は、つねに力(はたらき)の主体は弥陀・釈迦になっているように思います。

愚かな私たちは無意識のうちに、すべてのことで「私は」「私が」「私の」というように自分を主体とする、自己中心の考え方をしてしまいます。それが我執(がしゅう)、我所執(がしょしゅう)なのでしょう。

真宗三門徒派門主の挨拶をふり返りながら、歎異抄第2条を思い出しました。

歎異抄第2条

弥陀の本願(ほんがん)まことにおはしまさば、釈尊(しゃくそん)の説教(せっきょう)虚言(きょごん)なるべからず。

仏説(ぶっせつ)まことにおはしまさば、善導(ぜんどう)の御釈(おんしゃく)虚言(きょごん)したまふべからず。

善導(ぜんどう)の御釈(おんしゃく)まことならば、法然(ほうねん)の仰(おお)せそらごとならんや。

法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮(せん)ずるところ、愚身(ぐしん)の信心におきてはかくのごとし。

 

3.講演会
ご講師の法話は、阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれたものは、この世の縁が尽きたときに浄土に生まれ仏のさとりを得ることが、現生(げんしょう)において決定した聚(なかま)になるということ。
後生の一大事(ごしょうのいちだいじ)、現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)、往生即成仏(おうじょうそくじょうぶつ)という言葉を中心に展開されました。

お話しのなかで宿業(しゅくごう)に言及されることがあり、考えさせられることがありました。この点については浄土真宗聖典(註釈版)補註の業・宿業を読んでみたいと思います。

4.結び
この度の講演会で聴聞していろんな問いをいただきました。み教えに学ぶことにより、さらに問いが深まり固い心が深く耕されていきます。そして、心地よい自分中心の世界に安住することを是とできなくなります。問いがないということは思考が停止しているということです。それはマインドコントロールの宗教ともいえるのではないでしょうか。

人に正しい答えを与える前に、自分自身の内心に生まれた問いに、真摯に向き合う必要がありそうてす。

み教えに学ぶとき、私たちの世のなか(もちろん私自身も含めて)や私自身のありようが問題とされてきます。

講演会を聞いたあとも聴聞は続きます。
多くの問いをいただき有り難いことでした。

合掌

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地に這(は)い生きるものたちよ

エノコログサ 2023.06.13

境内の作務

昨日は境内・墓地(飛び地境内)全域の除草他の作業をしました
作業時間は4~5時間
歩数計を見たら約14000歩 移動距離は約7㎞~8㎞位
服は長袖 下足は足袋 口にはマスク着用 頭には帽子 
手にカマを持つとき以外は背に10㎏の噴霧器 
経口補水液と塩飴で熱中症対策  

墓地では墓の花立や蝋燭立が落ちているのは
元の位置に戻す作業も
電気柵周辺の除草も・・・
そしてときどき野花や虫の撮影 
これが楽しみ

電気柵周辺の除草もしました
当日は比較的元気でしたが 今日はさすがに疲れが・・・

門徒の方に気持ちよくお参りをしていただきたい
そしてAIの時代だからこそなおさら
豊かな自然を五感で感じてもらいたい
そんな思いで日々作務をしています

 

エノコログサ

写真はエノコログサ(別名ネコジャラシ
作務の休憩の時 撮影しました
エノコログサの花は あの先端のふわふわとしたグリーンの部分

カメラで撮るときにはモニターではなく
ファインダーで見たいので必然的に
顔が地に着くような姿になります
人に見せられるような姿ではありません

 

作務も聴聞の時間

とても平凡な花ですが 平凡な花だからこそ輝いています
人も平凡な人(凡夫)ほど 本当は黄金のように輝いています
親鸞さまはそんな大切なことを教えてくださいました
世のなかで瓦(かわら)や礫(つぶて・小石のこと)のように
価値がない瓦礫(がれき)のごとく
見なされている人たちこそ
本当は黄金(こがね)のような尊厳をもって生きているのだと

世のなかも上から見るのではなく 
地を這(は)うような
石(いし)・かわら(瓦)・礫(つぶて)の視点で見ることが
大切だと親鸞さまは教えてくださいました

今日はエノコログサに学んだことを
お聖教に聞いています
作務もまた聴聞の時間でした


『唯信鈔文意』「いし・かは
ら・つぶてのごとくなるわれらなり」

浄土真宗聖典(註釈版)708頁
このお言葉は 何度も何度も 繰り返し繰り返し 味わっています

おそらく生涯味わいつづけます 合掌

2023.06.14

NHK朝ドラ「らんまん」2023.09.01放送
万太郎の言葉

人間の欲望が大きゅうなりすぎて、

ささいなもんらは踏みにじられていく。
ほんじゃけわしは守りたい。

植物学者として後の世まで守りたい。
わしは植物学に尽くす。

ただそれだけだすきに。

この旅でわしはやるべきことが、

よー分かりました。
わしはどこまでも地べたをいきますきに。

人間の欲望に踏みににじられる前に、
すべての植物の名前をあきらかにして図鑑に永久に刻む!

 

戦争も環境破壊も私たち人間の

欲望と愚かさががおこすものです
なにが踏みにじられようとしているのか
なにが踏みにじろうとしているのか

お念仏を称えながら

カメラのファインダーをとおして
踏みにじられているものたちの

姿を見つめ

声を聞き続けていきたいと思います

「らんまん」の放送を見てブログを更新しました

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第2連区布教使研修会受講記

本願寺福井別院本堂

研修会場御本尊

第2連区布教使研修会受講記
期日:2023年8月30日
会場:本願寺福井別院
主催:第2連区 主幹:福井教区布教団 後援:布教団連合
研修講師:天岸淨圓さん(行信教校校長/大阪教区) 
同朋講師:岩本孝樹さん(布教団連合同朋研修講師/奈良教区)
久しぶりに第2連区布教使研修会に対面で参加しました
聞いたことの概要をふり返りました。
聞き違いや思い違いもあると思います、ご了承ください。

1.天岸淨圓さん
①立教開宗の意義
お釈迦さまの教えは多岐にわたるが、その教えを教相判釈(きょうそうはんじゃく)し整理分類するなかで法然聖人は廃悪修善(はいあくしゅぜん)を必要せず、善人も悪人も等しく救われる浄土門をあらわされた。さらに法然聖人は48願全体を選択本願とされたのに対して、親鸞聖人は法然聖人の意図を明確にするため、第18願のみを選択本願と示された。
親鸞聖人御消息「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり」

②宗教が人間のなかでどのような役割を果たすのか
親鸞聖人の書かれたものは救いの究極性が書かれているものが多いが、親鸞聖人御消息第2通には人の信仰がどのようにして成り立つか、信仰が成り立ったら人がどのように変わっていくのかを書かれている。それははこの手紙だけ。

自己中心的な生き方がこれでいいのか。
恥ずかしいという意識があれば、恥ずかしくない生き方をしようとする。

浄土があることによって、穢土(えど)を意識し浄土をねがうようになる。
汚れていることに気がついたら汚れを取ろうとする。

自己中心的に判断するのは自分が判断の主体となっている。それは自分を中心とする宗教だといえる。自分教。

明治以降の宗教教育その問題点

 

2.岩本孝樹さん
「み教えと差別の現実」について
-差別・被差別からの解放-
・「経典」内の差別語・差別表記について
・差別語にどう向き合うか
親鸞聖人の女性観
・変成男子(へんじょうなんし)の問題点

 

3.その他
二人の講師のお話しを聞いて共通していたのは言葉の大切さ。
親鸞聖人は非常に言葉を大切にされた。
言葉は人を励まし、人に生きる力を与える。一方で不用意な言葉で人に絶望を与えたり、人の命をうばうこともある。

 

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エノコログサ

エノコログサ

エノコログサ

花が美しいのではない
花を美しいと思う心が
花を美しくさせている

エノコログサを見ているときに
思い浮かんだ言葉

どこかで聞いたような記憶もあるが
どこで聞いたのかは思い出せない・・・

花は ただ咲いているだけなのだろう
人も ただ念仏して生きればよいのだろう

平凡な凡夫には 平凡な花が似合う

やはり エノコログサはこの瞬間
輝いている

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人げん なんのために 生きとるげん

真宗大谷派井波別院瑞泉寺富山県南砺市井波)

瑞泉寺掲示

 

子どもの問い
2016年8月1日・2日富山県高岡市の法座に寄せていただいたのですが、早朝5時から6時までの法座でした。

黎明講座(れいめいこうざ)という名前の通りです。そんなに早くから人が集まるのかと心配しましたが、夜明け前の暗いなか、4時半頃から多数の人が集まり始めたので驚きました。日中の移動の時間を利用して井波の瑞泉寺(ずいせんじ)にお参りしました。

猛暑のなか境内にいたのは私一人だけで、広大な本堂に一人ぼんやりと座り彫刻を堪能しました。そのような時間は私にとってとても大切な時間です。 

そして境内を出て掲示板をみたら、
「人げん なんのために 生きとるげん」小学一年生の女の子の問い

大人になり分別心でものごとを判断するようになると、この問いを忘れてしまうかもしれません。

本人もまわりの大人も性急な答えを求めず、この問いをあたためて、親鸞さまに聞いていくならばいずれ機縁が熟したときに、理性分別の彼方から答えが聞こえてくるのだろうと思いました。よくよく案じてもらいたいものです。とうぶん分からないままでいいでしょう。問いが深まるのはとてもうれしいものです。

人間とはもともと仏教語で、個人の人を意味するようになったのは後世のことです。本来は人間関係を意味しています。そうであれば考えなければならない本質は人と人の「間」ということになります。

高齢の人でも子どものような探究心を忘れない人は、生き生きとしいているように思います。人げんそのものに対する探究心には終わりがないのかもしれません。

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人間よ 人間を敬いなさい

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津久井やまゆり園事件・追悼法要 2016.08.15

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津久井やまゆり園事件・追悼法要 2016.08.15


生きとし生くるものすべて このみひかりのうちにあり
(しんじんのうた)

忘れられないできごとがあります。津久井やまゆり園事件です。2016年7月26日
神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所していた19名の方々がその尊い命を失い、26名が重軽傷を負うというとても悲しい事件がありました。

差別や偏見をおそれて、実名を公表できない人も多くいました。障がい者に対する差別や偏見は今でもあります。実名を公表した人たちの思いにも、公表しなかった人たちの思いにも、公表できなかった人たちの思いにも、私には共感できます。

今まで布教活動をしてきたのは「障がいのある人も、障がいのない人も、安心して暮らせる世のなかになって欲しい」そんな思いもあったからです。2度とこのような事件がおきて欲しくないと思いました。

事件にとても大きな衝撃を受けて、いたたまれない思いとなり、ご門徒のご協力を得て、2016年8月15日にお盆の法要と併せて「津久井やまゆり園事件・追悼法要」を勤めました。

阿弥陀さまの誓願(せいがん)は「すべてのものを摂め取り、一人も見捨てない」という誓願です。被害にあわれた方たちにも、阿弥陀さまの誓願は必ず届いているはずだし、もし一人でも救いからもれるようなことがあれば誓願は成就しません。

生産性の有無で「いのちの尊厳」は量(はか)れないし、生まれる価値のない人、生きる価値のない人はいません。いのちの尊厳を量(はか)る、量(はかり)そのものが無いから無量なのです。

私自身がみ教えに学んできた原点はここにあります。言葉の意味を理解したり、意思疎通をすることが困難な人、いろんな問題をかかえながら声をあげることができない人、その人たちの救いとはどのような救いなのでしょうか。その人たちの視点に立って、ともにみ教えに学び親鸞さまに聞いています。そうすれば、自ずと自分自身のありようも問われてきます。

 

そんなとき思い出す言葉があります「人間よ、人間を敬いなさい」です。

 

ドイツでは第2次世界大戦の時、多くの知的障がい者や精神障がい者などがいのちを奪われました。障がい者たちはガス室で最期を迎えたのですが、ハダマーという小さな町の精神病院の地下には今もガス室の跡が残っています。ハダマーの墓地にある被害者を追悼する記念碑に書かれている言葉が「人間よ、人間を敬いなさい」です。

恭敬の心(真実つつしんで敬う心)は、私の内心にはありません。阿弥陀さまからいただくしかありません。

自分一人の救いでは完結しないのが浄土の救いです。

敬う心のない自身に慚愧(ざんぎ)して、敬いあうことの喜びを分かちあいたい。人と人がお互いに敬いあう人間関係・御(おん)同朋(どうぼう)の人間関係をめざして、まず私自身が一人の人として一歩踏み出したいと思っています。合掌

 

【お釈迦さま】

ダンマパダ130
すべての者は、暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって、生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

ブッダの真理の言葉』中村元訳 岩波文庫 28頁

 

スッタニパータ147
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
ブッダの言葉』中村元訳 岩波文庫 37頁

 

親鸞さま】

一切群生蒙光照

『註釈版聖典 行文類』203頁

生きとし生くるものすべて このみひかりのうちにあり(しんじんのうた)

 

無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。慚愧あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるがゆゑに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。
『註釈版聖典 信文類』275頁

 

如来一切のために、つねに慈父母となりたまへり。
まさに知るべし、もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり。               

『註釈版聖典 信文類』288頁

 

信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ

大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり
『註釈版聖典 浄土和讃』573頁

 

如来尊号甚分明」          
「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり。
「明」はあきらかなりといふ。十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。

『註釈版聖典 唯信鈔文意』700頁

れふし・あき人、さまざまのものはみな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。れふし・あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどをよくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。          
『註釈版聖典 唯信鈔文意』708頁

 

一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。

『註釈版聖典 歎異抄』835頁

 

よしあしの文字をもしらぬひとはみな、まことのこころなりけるを、

善悪の字しりがほは、おほそらごとのかたちなり。

『註釈版聖典 正像末和讃』622頁

意訳

善(よ)し悪(あ)しの文字の意味を知らない人は、みな真(まこと)の心がありますが、善や悪の意味をさも知っているかのようなふりをしている人は、内心が虚(むな)しく実を結ぶことがないから、口からでてくる言葉もみな虚言(そらごと)となるのです。

 

この稿は未完です。おそらく生涯未完かもしれません。求め続けるしかないと思います。聖典の言葉は本来なら全部を意訳したいところなのですが、時間的な制約があり思うようにいきません。ご容赦ください。

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尊(とうと)み敬うべき「いのち」

分陀利華・白蓮華妙好人

法話聴聞

お勤めは『讃仏偈』の意訳『さんだんのうた』

最後の語句
たとい身は 苦難の毒に沈むとも
ねがい果たさん その日まで
しのびはげみて 悔いざらん

原文
たとひ身を
もろもろの苦毒のうちに止(お)くとも
わが行(ぎょう)、
精進(しょうじん)にして

忍びてついに悔いじ仮令身止(けりょうしんし) 

諸苦毒中(しょくどくちゅう) 
我行精進(がぎょうしょうじん) 
忍終不悔(にんじゅふけ)

 

この経文は俳優の高倉健さん

が大切にしていた

言葉でもありました

 

勤行の後

法話の趣旨はた個人の能力・資質などに関わらず

「いのち」そのものが尊いということでし

資質・能力・生産性の有無にかかわらず
信心よろこぶ人はどの人でも
如来と同じではないけれど
如来と等しい「いのち」として尊び敬わなければ
なりません

法話が終わったあと 改めてお聖教に
「いのち」の尊厳について聴聞しました

一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)といふなり。
大信心はすなはちこれ仏性(ぶっしょう)なり、仏性はすなはちこれ如来なり。
教行信証 浄土真宗聖典(註釈版)236頁

 

信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり
浄土和讃   浄土真宗聖典(註釈版)573頁

 

この信心の人を釈迦如来は、

「わが親しき友なり」(大経・下意)とよろこびまします。
この信心の人を真の仏弟子といへり。
この人を上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申すなり。

この人は正定聚の位に定まれるなりとしるべし。
しかれば、弥勒仏とひとしき人とのたまへり。
これは真実信心をえたるゆゑに、かならず真実の報土に往生するなりとしるべし。
親鸞聖人御消息 浄土真宗聖典(註釈版)748頁

 

ここまで読んで改めて
泥のなかから清浄の花を咲かせる白蓮華
自ら「いのちの尊厳」を名告る花なのではないのと
思い至りました

お念仏は「いのちの尊厳」の名告(なの)りでしょう
信心の智慧をえてはじめて「いのち」の尊厳に気づくことが

できます

泥のなかに生きる凡夫には濁った眼(まなこ)しかないのかもしれません

見えない泥中には迷いの世界に生きる私たち自身の姿が投影されています


今日の聴聞です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高齢者福祉施設の法座

高齢者福祉施設の法座

邦中組(ほうちゅうそ)伝道社会部の一員として

先日は浄土真宗本願寺派・福井教区・邦中組(ほうちゅうそ)
伝道社会部の一員として高齢者福祉施設に於いて
法座のご縁をいただきました
約3年ぶりのご法座です

大ホールにはご本尊一幅をご安置した小型のお仏壇
勤行は正信偈 法話は約30分 御文章拝読
ディケア利用者約40名と職員約10名の方が参加
法座があるのを当日知られた方もおられ
「念珠をもってくればよかった!」
「経本ももってくればよかった!」
などといわれる方もおられたようです

施設の職員さんが気をきかせて
正信偈・和讃のコピーを全員に渡していました
いつもこの施設にいくと驚くのが
正信偈唱和の声が大きいことです
今回も 職員の方も驚きそして喜んでおられました

久しぶりに皆さんの顔を見て
正信偈唱和の声やお念仏の声を聞くことができ
本当にうれしいことでした

これから毎月1回法座が勤まる予定です
私は伝道社会部の一員として
法座に出向する方の調整をします
私自身も出向します

感染症の状況で突然中止となる可能性も十分あり
とても困難な課題がたくさんあります
長いお付き合いになった
担当の施設職員○○さんとは本音で話し合います

正直にいえば不安です
それでも
利用者や職員のみなさんの喜ぶ姿を見ると
なんとかしたいと思います
法座を楽しみにしてディケアに来られる方も
おられるのです

この施設では感染症拡大以前には
入所者・デイケア利用者・職員
あわせて多いときで100人弱の方が
参加されたときもありました

この施設以外にも邦中組として関与している施設があり
現在法座再開の見通しが立っていない状況です

施設利用者の中には認知症の方も多くおられます
入所者の平均年齢は約90歳

 

私自身が問われている課題

重度の障がいをもつ方 
重い病気の方  認知症の方
児童養護施設に入所している子どもたちに
仏教専門用語を使わずに法話をすることが
できるかどうか
それは私自身が問われている課題です
それを各施設に行き 一人一人の人と会い 
その現場で学んできます
そしてそのあと親鸞さまにお聞きします
一人ももらさず必ず救う 

阿弥陀如来

平等の慈悲の心を

 

正信偈和讃のコピーはA3用紙1枚の両面です

正信偈和讃②

正信偈和讃④








和顔愛語(わげんあいご)

ニリンソウ

 

和顔愛語(わげんあいご)
仏説無量寿経の言葉

よくよく案じれば

 

お念仏を称え合掌礼拝する姿と

お念仏の声こそがまことの和顔愛語

 

阿弥陀如来のお姿と名号(みょうごう)が
真(まこと)の和顔愛語

恭敬の心(くぎょうのしん)がおもてに現れ 

つつしんで敬う姿が真(まこと)の和顔

真実の功徳である南無阿弥陀仏の名号が
真(まこと)の愛語

和顔はおだやかな顔 

愛語は慈愛(じあい)の言葉
恭敬の心(くぎょうのしん)とは

つつしんで敬う心のこと。他力の信心。
和顔愛語は如来の真実心(しんじつしん)が現形した姿

 

よく考えてみると
和顔愛語は私自身の

虚仮不実(こけふじつ)の心からでてくる姿では
まったくありませんでした

恭敬の心(くぎょう)の心(しん)をもつて
執持(しゅうじ)して名号を称すべし
行文類

 

虚仮不実(こけふじつ)のわが身(み)にて 
清浄(しょうじょう)の心(しん)もさらになし
正像末和讃

 

うちはむなしく、いつはり、かざり、へつらふこころのみつねにして、
まことなるこころなき身なりとしるべしとなり。
唯信鈔文意

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信仰に生き 信仰に死す

亡父の日誌に記された言葉 
1969(昭和44)年 亡父当時48歳

今日の一日を誠実に生きること。
自らの分を尽くすこと。
門徒、村人に対して
信仰に生き信仰に死すべきことを
刻銘(こくめい)に印象づけるよう
相対(あいたい)すること。
最大の遺物は信仰と人格なり。

父も祖父も
信仰に生き信仰に死すべきことについては
毀誉褒貶(きよほうへん)にかかわらず
愚直(ぐちょく)なまでに
妥協をすることがありませんでした


信仰に生き信仰に死すべきことを
自らの生きる姿で具現(ぐげん)しようとした
生涯でした
そのことを人に語ることは
なかったかもしれません
自分の心に刻んだのでしょう
私もそのように生きたいと思っています

※毀誉褒貶(きよほうへん) ほめたりけなしたりすること

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内心に潜(ひそ)む毒

本願寺福井別院 本堂

福井教区布教団主催「布教大会」

2023年度第1回布教大会
テーマ:自他ともに心豊かに生きることのできる社会をめざして
1.日時 6月22日
2.会場 本願寺福井別院 本堂

久しぶりにに参加
新型コロナウィルス感染症のために中止になったり
変則的な日程での開催が続いてしましたが
ようやく本来の日程で開催されました

福井教区布教団所属の布教使4人がそれぞれ40分の法話

布教大会の思い出
年3回開催される福井教区布教団主催「布教大会」
布教団の役員をしていた9年間はほとんど欠かさず毎回
「布教大会」に参加していました
はじめて法話をしたのは平成14年ですが
その時の緊張感はいまでも覚えています

法話の後の団員反省会は
時に火花が散るようなこともよくありました
み教えに学ぶお互いの真摯な姿勢が

緊張感をもたらすこともあります
緊張感も火花が散ることも時には必要です
惰性に流されることは恐いことです
だけど根底に相手を敬う心があってのことです

吉水に於ける
法然聖人を前にしての門弟の問答
歎異抄第2条の問答
どちらも緊迫感に満ちています
その根底には恭敬(くぎょう)の心があります

2023年度第1回布教大会聴聞
それぞれの法話聴聞して自分自身への問いをいただきました
「念仏のみぞまこと」と聞いてはじめて
自身の内心は「虚仮不実」だと知らされました
確信に満ちているときほど危ういものです

「内懐虚仮」の身だからこそ真実の功徳が満入してきます

み教えに学ぶと自身のありようや人間社会のありように
自ずと問いが生じてきます
そしてその問いが深まってきます
そして慚愧(ざんぎ)の心が発ります
そのことが人生に深い悲しみと慶びをもたらすように
思えてきました
そのことが救いなのかもしれません

放逸無慚(ほういつむざん)・無慚無愧(むざんむぎ)
のわが身に慚愧(ざんぎ)の心が発(おこ)る
それも本願のはたらきなのでしょう
まことに有り得ない有り難いことです

煩悩具足の私たちには
貪り・憎しみ・愚かさの三毒がそろっています
それは毒蛇や蠍(さそり)と同じです

毒蛇は蠍(さそり)を毒歯で噛み 
蠍(さそり)が蛇を毒針で刺す 

お互いに憎しみあい傷つけあっている
それが人間社会のありようならば
こんなに悲しいことはありません
自分の正義が毒針・毒歯だとは気づきにくいものです

お互いに毒をもった身であるからこそ
お互いに毒を消す南無阿弥陀仏の薬を好み
相手を毒で傷つけないような言動を心がけ
お互いに敬いあうことのできる
御同朋の人間関係にしていきたいと思いました

親鸞さまは御消息で御同朋(おんどうぼう)とはお互いのに人間関係だと
いわれています
それは人間関係は一人では解決できないからです
仏説阿弥陀経にしるされている共命鳥のはなしと同じです

「自他ともに心豊かに生きることのできる社会をめざして」
このテーマの意味するところは
御念仏を心に入れて申して
お互いに敬いあう御同朋の人間関係になることだと味わいました

布教大会で聴聞したことを重ねてお聖教に聞きました

 

外に賢善精進(けんぜんしょうじん)の相を現ずることを得ざれ、
内に虚仮(こけ)を懐いて、
貪瞋(とんじん)・邪偽(じゃぎ)・奸詐百端(かんさひゃくたん)
にして悪性侵(あくしょうや)めがたし、事、蛇蝎(じゃかつ)に同じ。

※貪瞋(とんじん)・邪偽(じゃぎ)・奸詐百端(かんさひゃくたん):
むさぼり、いかり、よこしまな心、いつわりの心、人をあざむく心が
かぎりなく起こること。
※蛇蝎(じゃかつ):へび、さそり。 
教行信証 信文類
浄土真宗聖典(註釈版) 217頁

悪性(あくしょう)さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(雑毒)なるゆゑに
虚仮(こけ)の行(ぎょう)となづけたる
正像末和讃
浄土真宗聖典(註釈版) 617頁

本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。
悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。
歎異抄
浄土真宗聖典(註釈版) 832頁

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