ほうわ

み教えに学び自分自身をふりかえります

関東のご旧蹟を訪ねて

西念寺02

西念寺03

西念寺04

西念寺05

西念寺06

西念寺07

西念寺08

西念寺09

西念寺10

西念寺11

西念寺12

関東のご旧蹟を訪ねて
4月に茨城県を訪ねて、親鸞さまが坂東でどのような暮らしを営まれたのか考えてみました。
関東のご旧蹟(きゅうせき)を訪ねたのは2回目です。前回は関東二十四輩(かんとうにじゅうよはい)といわれる、親鸞さま門弟ゆかりの寺院を個々に巡拝しました。

 

2010(平成22)年福井教区布教団研修旅行
築地本願寺 東京都中央区築地
本寺専修寺  栃木県真岡市
小島の草庵跡  茨城県下妻市小島
大覚寺 茨城県石岡市大増
西念寺 茨城県笠間市稲田
報佛寺  茨城県水戸市和田町
信願寺  茨城県水戸市緑町
願入寺  茨城県東茨城郡大洗町磯浜町
報恩寺  茨城県常総市豊岡町
報恩寺  東京都台東区東上野

 

2024(令和6)年ご旧蹟参拝
今回訪ねたゆかりの寺院は、教行信証を著述された西念寺のみでしたが、『親鸞の家族と門弟』今井雅晴著には次のように書かれています。

「一番長く住んでいたのは笠間市の稲田だろうと思います。」

親鸞には、昔から親鸞聖人門弟二十四輩(しんらんしょうにんもんていにじゅうよはい)と申しまして、二十四人のすぐれた門弟がいたといわれています。~中略~そういった最初のころの弟子たちの住んでいた所は、ちょうど稲田を中心とした三十五、六キロあるいは四十キロくらいの円の中にほとんど全部入るのです。」

親鸞は歩いて教えを伝えに行ったのでしょう。人間は一時間にどのくらい歩けるかというと、四キロあるいは五キロです。四キロとすると目的地まで四十キロで十時間かかります。五キロなら八時間、もっと早く歩けば七時間。つまり朝に稲田を出て、夕方に目的地に到着します。」

門徒の人たちは昼間は働いています。そこで親鸞は夜に教えを説き、翌朝見送られて帰るという一泊二日の日程の念仏布教の活動をしていたと私は思うのです」

親鸞の家族と門弟』今井雅晴著・法蔵館

 

この『親鸞の家族と門弟』の説明はかなり説得力があると思います。親鸞さまは比叡山で修行をされていたときに、比叡山の峰々を巡って礼拝する回峰行(かいほうぎょう)という修行もされていたことでしょう。平安京の六角堂に参籠された時も比叡山から百日間通われました。

以上のことをふまえて、茨城県常陸・下総)の地勢や風土・暮らしを知りたいと思い、レンタカーを借り西念寺を起点として二白三日で、観光地も含めて茨城県内を走りました

親鸞聖人御消息第2通には
「鹿島(かしま)・行方(なめかた)・奥郡(おうぐん)、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ。」
と記されています。
浄土真宗聖典(註釈版)738頁

鹿島(かしま)とは常陸の南東部、鹿島灘に面している郡のこと。
行方(なめかた)とは鹿島の西隣の郡。
奥郡(おうぐん)とは常陸の北部一帯のこと。

唯信鈔文意の最後には
「ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりな
 きゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、たびたびとりかへし
 とりかへし書きつけたり」と記されています。
浄土真宗聖典(註釈版)717頁

「ゐなかのひとびと」とは地方に住んでいて、毎日の暮らしに追われて学問をするような機会がなかった人々のことでしょう。

晩年京都におられた親鸞さまのお心には、都から遠く離れた地方に住む一般庶民のことがあったのだろうと思います。

今回改めて感じたこと
立教開宗800年の年に関東のご旧蹟に参拝して感じたこと。
私は浄土真宗本願寺派に所属していますが、どの宗派に所属しているかということよりも、親鸞さまの門徒・門弟として生きたいということです。
私自身の本師(ほんし)はお釈迦さまと親鸞さましかいません。

門徒(同門の徒・同じ親鸞聖人の門弟)
※本師(根本の教師)


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