鬼はどこにいる?
節分
2月3日は節分ですが節分には豆蒔きをします。「鬼は外・福は内」。
数年前映画「鬼滅の刃」を見に行きました。恐ろしい鬼を滅するさまざまなキャラクターの活躍をみると、自分のストレスも消滅するような気がしました。
肉付きの面
映画を見終わってから、ふと考えてみました。「鬼の正体は何だろう?」「鬼はどこにいるのだろう?」福井県の吉崎には「肉付きの面」の伝承がありますが、よく考えてみると鏡に映る自分自身が鬼なのではないだろうか。
吉崎に「肉付きの面」を見に行かなくても、毎日顔を洗うときに鏡を見れば「肉付きの面」を見ることができるのかもしれません。
内心に棲(す)む青鬼・赤鬼
仏法という鏡に映し出された私自身の内心に、貪(むさぼ)りという青鬼、怒り・憎しみという赤鬼、自己中心というお酒に酔った愚かな鬼がいて、火の付いた車に乗せ地獄に追い立てていきます。貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)という猛毒を好んで自他を傷つけている私の内心に鬼が棲(す)んでいたのです。
慚愧(ざんぎ)の心
そんな私たちの心に起きてくるのが慚愧(ざんぎ)のこころです。慚(ざん)も愧(き)も恥ずかしいという意味ですが、立心偏(りっしんべん)があります。内心に人を斬る心、内心に鬼の心、があると気づいた時に自ずと恥ずかしいという思いが生じてきます。
聞く耳を持つ
恥ずかしいという字は心の耳と書きますが、自己中心の自分自身の姿が恥ずかしいと思うようになると、心に聞く耳を持つようになります。
自分が正しいと確信しているときには他人の言葉には聞く耳をもちません。無意識のうちに自分を正当化して、他を論破し異なる価値観を排除しようとします。
それでは自分自身を反省する心が慚愧かというとそうではありません。もともと自己中心の私ですから根底から反省することなどできません。親鸞さまご自身は無慚無愧(むざんむぎ)の私だと言われています。自分自身を反省して恥ずかしいと思うような心は全くないと言われています。私たちは自分にとって都合のよいことだけを省みています。
慚愧の心は阿弥陀如来から賜った心です。
慚愧(ざんぎ)があるから歓喜(かんぎ)があります。慚愧と歓喜は表裏の関係なので切り離せません。一枚の紙の表裏の関係です。そして慚愧も歓喜も名号の功徳が届いたものです。
み教えが鏡となり智慧の光に内心を照らされたときに、無慚無愧の心であった自身が
恥ずかしくなる。そして本当の人間として生きる道が喜びとなる。それが救いなのです。
正像末和讃 愚禿悲歎述懐
無慚無愧(むざんむぎ)のこの身(み)にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ
『浄土真宗聖典』註釈版617頁
意訳
罪を恥じるような心がまったくないこの私には、まことの心はありませんが、
阿弥陀仏からいただいた名号のはたらきによって、慚愧の心が生じました。
慚愧の心があるから私たちは、まことの人として生きていくことができます。
その名号のはたらきは、あらゆる世界に伝わっていきます。
この項の続きは次の「慚愧よく衆生を救う」を見てください
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