ほうわ

み教えに学び自分自身をふりかえります

弱者の視点に立つ

弱者の視点に立つ


布教提言            

弱者の視点に立つ

み教えと生活                               
私は26年間兼職生活を続けてきました。様々な職種を経験しましたが、不器用な私は、数え切れないほどの挫折も繰り返しました。本当に時間に追われる毎日だったと思います。職場では競争社会の激流にのみ込まれていました。

また、家庭でも30年以上障がい者とともに生活をして、現在も様々な課題をかかえています。兼職生活をやめたのは結局、仕事・家庭・健康等すべての面で限界を感じたからです。

その自分の歩んできた人生を振り返る、きっかけとなったことがあります。教区基推・連研部会で、教区の連研ノート作成に参加したことです。長時間の議論を積み重ね、互いに何度原稿を書き直したか分かりません。

しかし、他人に説明できないような思いや感情も、文字に表し言葉として語り合うことにより、少し整理することができたように思えました。振り返れば、この作業が私にとっての話し合い法座だったのです。

担当したテーマの原稿を書くときは、大げさかもしれませんが、自分史を記しているような思いがしました。不登校・虐待・差別・介護・福祉・競争社会などの課題は、自身が日常生活の中で体験したり考えてきたことだったからです。

現在は、私自身が問いを持ち、悩みや不安に向き合うということが、布教伝道の前提だと思っています。宗教に現実逃避の場を求めるのではなく、如来智慧に照らされた現実そのものを見つめなければならない。

そして、「同じ悩みを持つ朋」(同朋)と語り合い、共に往生浄土の道を歩みたいのです。以上のような思いをふまえて、布教伝道に対する考えを記してみたいと思います。私自身の問答であり、未熟な私に対する提言です。

法座
法座というと、まず思い浮かべるのは寺院での法座でしょう。しかし、それは法座の一形態にすぎないと思います。また、袈裟を着けているときだけが法座ではないと考えます。念仏のでるところは、どこでも法座になりうるということです。

寺院でも、家庭でも、職場でも、苦悩に向き合う場所が法座になります。むしろ、既定の法座がどこかにあるという意識から、自身の苦悩に向き合うこの場所を、自らの法座にするという意識に、変える必要があるのではないでしょうか。

現実離れした極論だといわれるかもしれませんが、少なくとも意識のうえでは、そうありたいと思っています。聴聞者が私一人だけでもよいのです。また、一方的に答えを説明するという法座から、共に問いを持ち問いを深める法座に、変えていくことも大切だと考えます。問いを深める喜びを分かち合いたいからです。

伝道
語ることだけが伝道ではないでしょう。黙して全力で耳を傾けることも伝道だと思います。どこであっても、相手がだれであっても、目の前にいる人の思いを全身で受けとめ、語るべきときがきたら語る。そしてただ念仏する。私はその単純さが好きです。

権威も肩書きも必要ではありません。現在の私にできていることだとはいいません。そうありたいと思っているのです。

自らを問い続け、法に聞き続ける。愚かな姿のまま、自らの聞法の道のりを語り続ける。そして念仏の声を聞く。それが生きる営みでしょう。本願を依り処として苦悩に向き合って生きる、その姿が自ずと伝わるのだと思います。

生きる営みが、そのまま伝道だと思うと怖くなります。しかし、その怖さから逃げては何も始まらないのではないでしょうか。真の弱さに気づいた者こそ、弱者の視点に立つことができます。弱者の視点に立ち、群萌の中で生きたいと思っています。弱者の視点に立ったとき「いのちのつながり」と「いのちのつながりを断とうとするもの」が見えてきます。

世の中を見る視座                                
人間という言葉には世の中、世間、ひと、などの意味があります。人間を考えることは、すなわち世の中を考えることでしょう。世の中を見る視座が欠落したら、人そのものも見失うかもしれません。

私の愚かさはそのまま、私たちの愚かさに相通じるものだと思います。社会や歴史の中で構造化・制度化・固定化した社会的煩悩を見る視座を、見失ってはいないでしょうか。自分が所属する集団の自己中心的な論理を正当化して、他の人々を傷つけることもあります。私自身が自戒しなければならないことです。

語り合いたい
問いを持ち、問いを深めることの大切さは既述の通りです。日常生活の中に、問いがあるのだと気づくのは難しいことです。問いを持ち続けることはつらいものです。しかし、問いが熟したときの味わいは格別です。

問いを深める喜びを知っています。その喜びを分かち合いたい。そして深く語り合いたいのです。
                                           

2012年浄土真宗本願寺派・福井教区「布教団報」に掲載された文章です。

福井教区『連研ノートWith』は2007年~2009年福井教区連研部会が中心となり2009年に福井教区より発行されました。本願寺福井別院で購入することができます。掲載されている事実は時代とともに変化してきますが、人間の本質は時代が変わっても変わりません。阿弥陀さまの智慧に照らされて生死勤苦の本(しょうじごんくのもと)・苦しみの根本が顕(あきら)かとなってきます。

10年前に掲載された文章ですが、基本的な思いは変わっていません。「自分が所属する集団の自己中心的な論理を正当化して、他の人々を傷つけることもあります。」と記しましたが、現在のロシア軍ウクライナ侵攻の報道を見るとき、人間の愚かさを改めて痛感します。それは私たちも他人事ではありません。

         
2021年にご往生された連研部主任(当時)M先生に心から哀悼の意を表します。          

2022.04.23
2023.02.05

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