ほうわ

み教えに学び自分自身をふりかえります

共に命がつながりあった鳥

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【原文】

かの国にはつねに種々・奇妙なる雑色の鳥あり。白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり。(中略)このもろもろの鳥は、みなこれ阿弥陀仏、法音を宣流せしめんと欲して、変化してなしたまふところなり。『浄土真宗聖典本願寺出版社

【意訳】
  阿弥陀さまの世界(浄土)には共命の鳥などの、さまざまな鳥がいます。これらの鳥はみな、阿弥陀さまが私たちを真実の願いに導くために、いろいろと形を変えて現されたものです。

【浄土の鳥】
白鵠:鶴の一種。白鳥ともいわれています。
舎利:黒い色で人間の言葉を暗誦するといわれています。
迦陵頻伽:きわめて美しい声をだすといわれています。
共命の鳥:姿は鳥の形をしていて、一つの身体に二つの頭があります。顔は人の顔をしているともいわれ、共に命がつながりあっています。

■仏教説話 共命の鳥(ぐみょうのとり)
~共に命がつながりあった鳥~
阿弥陀さまの世界には、共命の鳥という名前の鳥が、美しい声を響かせています。この鳥には次のような説話が伝えられています。ある森に共命の鳥がすんでいました。

とても不思議な鳥で、身体は一つだけれど首から上が二つあります。仲がよくて毎日きれいな声を、森のいきものたちに聞かせていました。

ある日のことです。森のいきものたちの間で、
「どちらの声のほうが、美しいのだろうか?」
と、話題になりました。それを聞いた二羽はそれぞれに、
「自分のほうが、一番に決まっている!」
と、言い争いを始めました。 
言い争いは激しくなってきましたが、離れようとしても離れることができません。とうとう憎しみあうまでになりました。そのようなことが続いたある日、一方の鳥が、
「そうだ!相手がいなくなってしまえば、自分は一番になれる!」
と考え、こっそりと食べ物に毒を混ぜて、相手に食べさせました。相手の苦しむ顔を見ながら、
「これで、私が一番だ!」
と、微笑んだその瞬間に、自分自身も同じように苦しくなってきて、そのまま両方とも、死んでしまいました。

物語はここまでです・・・。

■自利利他の世界を願う
  ~共命の鳥は私たち自身~

この説話は、阿弥陀さまの願いを伝える物語だと味わっています。共命の鳥は実在する鳥ではなく、阿弥陀さまの願いを形のあるものとして象徴しています。

仏教では縁起を説いています。智慧のない、愚かな人間の眼には見えませんが、あらゆるものはお互いに網の目のように、つながりあっています。そのことを、共命の鳥では一つの身体で表現しているのでしょう。

しかし、現実の私たちは自分中心の殻に閉じこもり、つながりあっていることが見えず、お互いが傷つけあっています。このことを自害害彼といいます。自分が傷つけば相手も傷つき、相手が傷つけば自分も傷つきます。傷つけあうことの愚かさ・悲しさに気づいてもらいたいという阿弥陀さまの悲願が聞こえてきます。

そのような私たちのために、仏教は自利利他の関係を教えています。自分の幸せが相手の幸せともなり、相手の幸せが自分の幸せともなる、そのような喜びを分かちあえる世界があることを知って欲しい。いのちあるものすべてがお互いに敬いあえる世界(浄土)に往くことを願って欲しい。その、阿弥陀さまの願いが、鳥の姿として象徴的に説かれています。

阿弥陀さまの悲願が聞こえるとき、私たちの口から、自ずと南無阿弥陀仏のお念仏の声がでてきます。それは、阿弥陀さまの悲願におまかせして、自害害彼の世界を離れ、自利利他の世界を願う心が声となったものです。

浄土では、共命の鳥はお互いに敬いあい喜びを分かちあいながら、とても美しい声を響かせています。   

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