私はカメラで自然の風景・花・鳥・小動物を撮影するのが好きです。野花や小さな生きものを見ると、とても愛(いと)おしく思えてきます。また、仏教徒でもあります。この2つのことは私自身の内心では深くつながっています。
言葉で説明することはとても困難なことですが、共通するのは「いのち」「ひかり」「時間」「色・形」「いのちの共感」「いのちのつながり」「視点」などです。
「視点」で言えるのは、狭い視点を離れて広い視野で世のなかや人間関係を見つめていくことが大切だと思っています。また、弱い立場におかれている人の目線で「いのちのつながり」を見ていくことでもあります。
人に踏みつけられている小石や野花の視点でいのちを見つめると、いのちを慈しむ心が芽生えてきます。
それは煩悩の知恵で可能なことではなく、すべてを見通す阿弥陀さまの智慧をいただいたとき、おのずと「いのちのつながり」が見えてきます。
そんなとき思いうかべるのが、親鸞さまが著された『唯信鈔文意』に記されている「いし・かわら・つぶてのようなわれら」という言葉です。
かわら・つぶてとは瓦礫(がれき)のように価値のないものと、世のなかからレッテルを貼られた人々のことです。そのような人を親鸞さまは同じ仲間なんだと呼びかけてくださいました。いし・かわら・つぶてのような世の底辺に生きる人の視点に立ちたいものです。
また、人間だけでなく今・この一瞬を懸命に生きている、さまざまないのちの瞬間を見つめていきたい。そんな思いでいます。
この一瞬を生きているベニシジミと私たちのいのちはつながっています。仏教の言葉でいえば「縁起」「一切即一」「一即一切」ということでしょうか。
一つのいのちは十方衆生(生きとしいくる、ものすべて)とつながりあって成り立っています。
一人が救われるとき、すべての救いも成就する。すべてが救われるとき、一人の救いも成就する。そのようなお互いに依存し合う関係性によって、いのちは存在しています。
切り離すことのできない、いのちの関係性を大切にして、お互いに親しみあい、お互いに敬いあう関係を、親鸞さまは同朋(どうぼう)とよばれました。
親鸞さまの言葉を味わいながら花を思いうかべ、写真を撮りながら親鸞さまの言葉を味わう、そんな日々を送っています。
これからも写真を撮り続けますが、どこかで親鸞さまの生き方と、つながっていることを想像しながらシャッターを押したいと思っています。かけがえのないいのちの一瞬を見つめて・・・。
この稿はまた更新するかもしれません・・。
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。『ブッダの言葉』中村元訳 岩波文庫 37頁
れふし・あき人、さまざまのものはみな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。れふし・あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどをよくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。『註釈版聖典 唯信鈔文意』708頁
生きとしいくる ものすべて このみひかりの うちにあり『しんじんのうた』
ベニシジミは以前にふくい健康の森で撮影しました。