ずいぶん前のことですが
看護師が常駐している高齢者福祉施設で法話をしたときのことです。会場に集まった高齢利用者の多くが認知症の方でした。みなさん車いすに座っておられます。話しを始めても身動きもせず反応もあまりありません。
私は仏教讃歌を歌いました。子どものころ日曜学校でみんなといつも歌っていた「ほとけのこども」です。
ほとけのこども
われらは ほとけのこどもなり
うれしきときも かなしきときも
みおやのそでに すがりなん
われらは ほとけのこどもなり
おさなきときも おいたるときも
みおやにかわらず つかえなん
しみじみとした歌でとてもシンプルです。それでいてなんともいえない深い味わいがあります。
「われら」は私たちみんながという意味。「ほとけ」「みおや」は阿弥陀如来。
「うれしきときも」「かなしきときも」「おさなきときも」「おいたるときも」は何時でも、誰でも、どんな時でもという意味になります。
でも意味の説明はそんなに必要ではないのかもしれません。
歌い終わりしばらく話しをして、とても静かな法座は終わりました。反応を気にかけながらエレベーターに乗り施設を後にしようとしたとき、看護師さんが話しかけてくれました。
「歌っているときに○○さんの唇が、歌に合わせてかすかに動いていた」と驚いて言われるのです。きっと幼い頃に私と同じように日曜学校で歌ったことがあるのでしょう。
数十年間記憶の底に眠っていた歌の記憶が甦ったのだろうと思いました。
いのちの原風景といってもよいと思います。
私はとても感動しました。仏教用語を使わなくても一緒に歌えば共感できる。それが法座の原点のように思えました。法座では童謡や仏教讃歌そして懐かしい歌を歌うこともあります。多くの場合みなさんが一緒に歌ってくださいます。
あなたもわたしも「ほとけのこども」です。
如来一切のためにつねに慈父母(じぶも)となりたまへり。
まさに知るべし、もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり。
教行信証 信文類 浄土真宗聖典(註釈版)288頁
釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。われらがちち・はは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。
唯信鈔文意 浄土真宗聖典(註釈版)713頁