ほうわ

み教えに学び自分自身をふりかえります

大悲(だいひ)の親

日日草(ニチニチソウ


雨上がりの日日草(ニチニチソウ)はまるで兄弟姉妹のようです。この花を見て59歳で往生した兄のことを思い出しました。

6歳違いでしたが本当に優しい兄でした。私が小学生になったばかりの時、下校の時、暴風雨になったことがあります。風で傘が飛ばされそうになったとき、兄は私の傘が飛ばないように傘の端を引っ張って、私をまもってくれました。どうしてだか分かりませんがよく憶えています。

2人兄弟ですから、兄が病気で誰にも看取(みと)られることなく急逝したときには、驚天動地(きょうてんどうち)の思いでした。半ば放心状態で通夜・葬儀を迎えましたが、少し落ち着いたとき、浄土真宗のみ教えをしみじみと味わいました。

信心が定(さだ)まるとき、浄土に往(ゆ)き生まれることもまた定(さだ)まります。両親も兄も、誰にも看取(みと)られることなく病気で急逝しましたが、臨終の善悪はまったく問題とはなりません。

今が臨終という言葉を聞いたことがあります。毎日の勤行(ごんぎょう)が臨終勤行です。

どのような臨終を迎えようと、今、浄土に往(ゆ)き生まれることが定(さだ)まっているいのちです。私も両親や兄と同じ道を往(ゆ)きたいと思っています。

両親や兄も今は浄土に往生(おうじょう)して仏(ぶつ)と成(な)り、迷いの世界に還(かえ)り、私だけではなく「いのちあるものすべて」を、分け隔てなく平等に救う菩薩(ぼさつ)のはたらきをしています。

私も同じ願いをもって生きています。

両親や兄も、私たちがお念仏を称えることを喜び、浄土に歩む道を喜んで護(まも)ってくれています。
大悲(だいひ)の親である阿弥陀さまの子として、同朋(どうぼう)とともに生きて欲しいそれが両親や兄の願いだと味わっています。

日日草(ニチニチソウ)が「生きることは思うようにならないことが多いけれど、一日一日がかけがいのない大切な一日、一日一生だよ」と語りかけているようです。


※よく考えてみれば鎌倉時代室町時代は大飢饉・争い・伝染病が繰り返され、いつ・どのような臨終を迎えるか予測などできない時代でした。

※信心「が」定「ま」るのであり、私が信心「を」定「め」るのではありません。定(さだ)まったのは阿弥陀さまの真実心であり、定(さだ)めたのは阿弥陀さまです。私が確信する心でもありません。

1.親鸞聖人御消息(しんらんしょうにん・ごしょうそく)
臨終まつことなし、来迎(らいこう)たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。
浄土真宗聖典(註釈版)735頁


まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定(しんじんけつじょう)のひとは、疑なければ正定聚(しょうじょうじゅ)に住(じゅう)することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智(ぐちむち)の人も、をはりもめでたく候へ。

浄土真宗聖典(註釈版)771頁


2.浄土和讃(じょうどわさん)
南無阿弥陀仏をとなふれば
十方無量の諸仏(しょぶつ)は
百重千重囲繞(ひゃくじゅうせんじゅういにょう)して
よろこびまもりたまふなり

※囲繞:とりかこむこと

浄土真宗聖典(註釈版)578頁



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