一人の女性が訪ねて来られました
3年前コロナ感染症が拡大していた時の11月頃。所用をすませて寺に戻ったとき境内にとまっていた乗用車から、30~40歳代かと思われる一人の女性が降りてきました。
「お寺の方ですか?」と問われるので、「そうです、何かご用ですか?」と返答。
参拝したいということなので本堂に案内しました。
昨日、福岡県から福井県在住の友人に会うために来たけれど、今日は文殊山に行った帰途、県道を走っていたら、たまたま正覚寺が見えたのでお参りしたいと思った・・・。というような話しでした。
建物や荘厳のことについて一通り説明。静かに座って沈黙の時間。何か話したいことがあるようなのですが・・・。しばらく待って浄土真宗の教えについて語りかけました。
・・・ご本尊は阿弥陀如来です。阿弥陀如来は「いのちあるすべてのものを、一人も見すてることなく、平等に摂(おさ)め取りたりたい」と誓われました。その誓いが光のかたちとなりはたらいています。苦しみ悩む人を救うために立ち上がり一歩前に進もうとしているお姿です。」・・・そんなことを語ったようにおぼえています。
もっと近くでご本尊を拝みたいといわれ、なんと外陣(げじん)最前列の内陣(ないじん)間際の所に座り、ご本尊を長い間、じっとご覧になっていました。またしばらく沈黙の時間。目には涙をためておられる様子だったので私も沈黙。
なにか人に言えない深い悩みをもっておられる様子。
しばらくして、「どのようにお参りしたらいいのですか?」と問われました。・・・合掌して、できれば「南無阿弥陀仏」と称えてから礼拝してください。無理に「南無阿弥陀仏」と称えなくてもかまいませんが・・・と返答。初対面の人がお念仏を称えることはないだろうと、思っていたのですが、すなおにお念仏を称えられたので驚きました。
こころ貧しく迷えるもの
そして、「どのようなお勤めをするのですか?」と問われるので、たまたま経卓の上にあった浄土真宗聖典の重誓偈(じゅうせいげ)をお見せしたところ、聖典に目を通しながら突然「これは私のことです!」とはじめて大きな声で。
最初、なんのことかよく分からなくて、よくよく聖典をみると重誓偈の説明にはこのようなことが書かれていました。
久遠(くおん)の仏(ぶつ)が法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)となってあらわれて、すべての衆生(しゅじょう)をすくいとろうという四十八の願いをおこされた。
そうして、その願いをかならずなしとげて、心まずしく迷えるものを救うために、南無阿弥陀仏のみ名をすべての人に聞こえさせねば、仏にはならないと重ねて誓われている。仏説無量寿経のなかの偈(うた)である。
このなかの「心まずしく迷えるもの」がご自身と重なった様子でした。
私はいままで幾度となく重誓偈を読誦(どくじゅ)してきましたが、考えてもいなかったことだったので驚きました。貧しいというのは、経済的に困窮(こんきゅう)した生活をすることだとばかり思っていたのです。
もちろんそのこともありますが、心が貧しいとは、自分のことばかり考えて周りの人のことを考えない自分中心のありようを「心が貧しい」と言われたのだと気づきました。
『仏説無量寿経』重誓偈
我於無量劫(がおむりょうこう) 不為大施主(ふいだいせしゅ)
普済諸貧苦(ふさいしょびんぐ) 誓不成正覚(せいふじょうしょうがく)
われ無量劫(むりょうこう)において、大施主(だいせしゅ)となりて、
あまねくもろもろの貧苦(びんぐ)を済(すく)はずは、
誓ひて正覚(しょうがく)を成(な)らじ。
浄土真宗聖典(註釈版)24頁
意訳
私は果てしない時のあいだ、まことの功徳(くどく)をあたえる主(ぬし)となり、
貧しくて苦しみの多い人々を、すべて救うことができないようなら、
決してさとりを開きません。
女性はお寺で泣いたのは2度目だと話されました。
1時間以上お参りになって本堂を出られる時には少し落ち着いて、表情も和らいだように感じられました。
悩みを縁として
帰られたあと、女性が称えられたお念仏の声が私の心に響いてきました。
心まずしく迷えるものよ・・・。
よくよく考えてみると、こころ貧しく迷えるものとは私自身のこと・・・。心まずしく迷えるこの私を救いというのが阿弥陀如来の願いでした。
法要などの目的があってみなさんとお寺にお参りしていただくのもよいのですが、人生の悩みがあるとき一人でお寺にお参りしていただくのもよいものです。生きるヒントが見つかるかもしれません。私にも悩みがあります。一緒に学びましょう。
称名