ほうわ

み教えに学び自分自身をふりかえります

見えていないもの

オカトラノオ 2202.06.23撮影

オオバギボウシ 2022.06.27撮影

 

初夏を彩る花
境内に咲くオカトラノオオオバギボウシです。初夏を彩る境内の花でどこか涼しげです。60年以上この地に住んでいるのですが、実はいままで、このような花が咲いていることを知りませんでした。毎年咲いていたはずなのですが・・。
兼職・介護など日常生活に追われて、山野草を見るゆとりもありませんでした。

鳥の声・花の姿
自分自身が年を重ねたことと、新型コロナウィルス感染症で日常の生活様式が変化したことなどがあり、境内の作務をしていると、いろんなところから鳥や虫の声が聞こえ、いろんなところに、知らない花が咲いていることに、気づくようになりました。

見えていないもの 聞こえていないこと
見ているつもりでも見えていないもの、聞いているつもりでも聞こえていないことがたくさんあります。花や鳥だけではなく、人の姿も見えていませんでした。人の声も聞こえていませんでした。身近にある大切なものに気づいていませんでした。自分自身の姿さえ見えていなかったようです。

自分中心の狭い世界に安住
きっと、自分とって都合のよい世界だけを見て、自分にとって心地よい声だけを聞いていたのでしょう。自分中心の狭い迷いの世界に安住していました。
お念仏の声も聞こえていませんでした。

そんな時、「尺取り虫」と「蚕(かいこ)のまゆ」のたとえ話を思い出しました。

尺取り虫
尺取り虫は同じところを何度も循環しています。よく考えてみると、私たちも外の世界に向かって前進しているつもりでいても、実際には自分中心の狭い世界を幾度となくめぐって、閉ざされた迷いの世界から、一歩も離れることができていないのと同じです。そしてその自覚さえありません(智慧のないものには自覚できません)。

蚕(かいこ)のまゆ
また、蚕(かいこ)は自らだす糸で繭(まゆ)をつくり自身を縛(しば)っています。私たちのありようも、自分中心の閉ざされた、狭い迷いの世界に自身を結び(縛り)、自分独りだけ快楽の世界に安住して、周りの世界(苦悩の世界)が見えていないのではないでしょうか。そのことも自分では自覚できません。まゆの内で見ている世界がすべてだと確信しているからです。

自縄自縛
私の煩悩の眼(まなこ)には、自らの自縄自縛(じじょうじばく)の姿は見えていませんでした。智慧(ちえ)の眼(まなこ)がないからです。それでいて、すべてが見えているように思い込んでいました。このことを顛倒(てんどう)といいます。すべてを逆さまに見ているということです。自分中心の価値観に自分自身が縛られています。

広くつながる世界
お念仏を称えながら暮らしを営むと、いろなんところからお念仏の声が聞こえてきます。そのお念仏の声が智慧の光となり、自分中心の閉ざされた狭い世界から、すべてのいのちあるものにつながる、広い世界に私たちを導いてくださいます。

境内で作務をしていると、自我の壁を超えて、いたるところからのお念仏の声が聞こえてきます。

重誓名声聞十方(じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)
正信念仏偈

尺蠖(しゃっかく)の循環(じゅんかん)するがごとく、蚕繭(さんけん)の自縛(じばく)するがごとし。曇鸞大師(どんらんだいし)『往生論註(おうじょうろんちゅう)』                 
浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)』57頁

 

尺蠖:尺取り虫 蚕繭:かいこのまゆ 
自縛:自ら自分を縛ること。自縄自縛(自分の主張した意見に拘束されて自由を失うこと。「自縄自縛(じじょうじばく」 
広辞苑

 

www.facebook.com

 

www.facebook.com

doubou.hatenadiary.jp

doubou.hateblo.jp