ほうわ

み教えに学び自分自身をふりかえります

人間 人と人の「間」にあるもの

文殊山展望台から見たふるさと四方谷の全景


文殊山展望台から見たふるさと四方谷の全景です。
この地には今から2500年~3000年前の縄文時代以前から人々が暮らしを営んできました(四方谷岩伏遺跡)。

2500年前といえばお釈迦さまのおられた時代です。縄文時代と現代を比較すれば、知識は増え生活は著しく変化しましたが、昔も今も争いは絶えません。
人間関係(社会 )で苦しみ悩むのは、いつの時代も変わらないようです。自己中心である人間の本質もまた同じように変わりません。

「人間」はもともと仏教語です。インドの言葉でも漢訳でも複数的に表現されています。「人間」に人そのものの意味が加わったのは江戸時代以降だそうです。社会という言葉が用いられるようになったのは明治以降のことです。

人と人の間にある関係性のなかで生きるのが私たちです。一人で生きることはできません。「自己中心」が問題となるのは関係性のなかで問題となるのであって、存在しているのが一人だけならば問題となり得ません。上下関係・力の関係・価値観の違いで悩むのも人間の関係性です。

根本的に苦しみを解決しようとすれば、関係性全体を見つめていくほかありません。そこに縁起ということが重要な課題となってきます。個人では完結しない問題だからです。お互いに認めあい誰も排除しない関係性を求めるのが仏教です。

人と人の「間」で迷って、時には超えがたい壁をつくり、人間関係のなかで愛と憎しみに翻弄(ほんろう)されている私たち自身の愚かなありようを、お釈迦さまのみ教えを鏡として深く見つめておられたのが親鸞さまです。

親鸞さまは浄土真宗は究極の大乗仏教(だいじょうぶっきょう)だと、お手紙のなかで記されています。そして普遍的な人間関係として、お互いが対等で平等な同朋(どうぼう)という関係が、人間の救いになることをお示しくださいました。
「さまざまな違いを認めあい、同じなかまとしてお互いに敬いあいましょう」と呼びかけてくださいます。
そこには究極の多様性を認める世界、たとえるならば、海がさまざまな川の水を受け入れて一つの潮(うしお)とかえていくような、水平で豊かな世界が広がっています。四方を山にかこまれた四方谷の川の水もまた、広い海に流れていきます。

お念仏を称えて愛と憎しみを超える道を、この地に住んでいた先人達は歩んで来たのだろうと思います。ふるさとの山々から先人達のお念仏の声が聞こえてきます。私たちは今日から時間・場所・年齢・性別・価値観のへだてを超えて共に同じ道を歩むなかまです。

※人間:世間・世のなか・社会のこと。人間関係。※社会:明治8(1875)年福地源一郎が「ソサイエチー」の訳語として「社会」の語を使用したことで定着した。

 

御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ

親鸞聖人御消息25通『浄土真宗聖典(註釈版784頁』

 

人間 仏教語
梵語マヌシャ(manusya)の訳 衆生が輪廻する六道の一つで、インドの言語でも漢訳でも、複数的に表現されている。真実に人間たるためには、多くの人に接し、多くの人間を倖せにしようとする大乗仏教の菩薩の立場も、この人間観に基づいている。またmanusyaはマナス(manas)から作られ、(考えること)の意で、考えられていたわけである。この考え方は、八正道の第二に正思惟を置き、般若を重んじ、意識を問題として取り上げる仏教の立場の基調になっていたといえよう。

『新・佛教辞典 中村元監修 誠信書房
 

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